とりわけ子供を持つ民間人の動揺は大きく、理由を付けて本土へ引揚げる人たちが出始め、近代化作業の大幅な遅延すら起こりかねない状況になっていました。

そして、この学校火災からわずか3か月後の大正8年(1919年)3月1日に、京城にて突発的な大暴動が起こったのです。

それが「三・一独立運動」です。当時は「京城騒乱事件」や「京城騒擾事件」とも呼ばれていました。

三・一独立運動は詳細を取り上げていると紙面がなくなるので割愛しますが、この京城で起きたことはかん口令にもかかわらず、任期を終えた総督府官吏や、当時その場に居合わせた民間人が内地(日本本土)に戻ると、「実は~」とこっそり話していました。

そういうこともあり、このあとに起きた大正12年(1923年)9月1日の関東大震災時に結成された自警団(京城で先に大暴動発生前から活動家の朝鮮人の襲撃から身を守るため民間人が自警団をつくっていました)やそれが起こしたトラブル、戒厳令を引いて軍を皇居の警備(奉安所の火災、結婚式襲撃未遂事件などの事例から、大正天皇への直接攻撃の警戒)に当てたりしたことへの影響が、京城から引き揚げた当時を知る人たちで話されていました。

しかし、こちらのことも、なぜか今日の歴史書や報道では、韓国側や日本本土の視点でのみ考察されたものばかりが目につき軽んじられています。

結果として、現在、当時の事情を聞く機会に恵まれなかった多くの日本国民が、外地で起きていた異変が内地にどのような影響を与えたのか、という点を踏まえた上での考察をすることが難しくなってしまっています。

大正9年(1920年)に京城日報社が出版した『朝鮮騒擾の真相』、大正13年(1924年)に朝鮮総督官房庶務部調査課が「三・一独立運動」前後の状況、運動の背景まで詳細に調べ、まとめたマル秘資料「朝鮮の獨立思想及運動」が国立国会図書館デジタルライブラリーにて公開になっていますので、一読されることをお勧めします。