僕の返事を聞いて夫人は、申しわけなさそうな顔つきで入ってきた。
「お疲れさま。大変だったでしょう? どうでした? 今日一日やっただけですから、何とも言えないでしょうけど。勉強遅れているでしょ?」
僕は返事に窮した。いまの彩さんは勉強どころではない。心が病んでいるから、まず話し合うことが必要だ。でも、そんなことを正直に言えるわけがないから、
「そうですね。とにかく基本をしっかり覚えていないので、しばらくは基本的なことを勉強しようと思っています」
と適当に話を合わせた。
「あ、そうですか。やっぱりね。彩が勉強している姿なんか見たことありませんから。学校も休みがちですし。親としてもどうしたらいいかわからなくて……」
夫人は、彩さんにかなり手こずっているようだった。僕は、夫人の人生と、複雑な家庭環境に同情しながら、
「どこのお子さんもみんなそうですよ。親の言うことなんか聞きませんよ」
と言うのが精一杯だった。それでも夫人は、僕の言葉に少し慰められたのか、
「まあ、このくらいの娘は、反抗期も加わって一筋縄ではいきませんから。親は苦労しますわ」
と素直に心情を吐露した。
僕はすぐに返事をしないで、苦笑いしていた。そして夫人の言葉に同調するつもりで、
「確かに、年頃のお嬢さんをお持ちのお母さんは、大変でしょうね」
「そうですかね」
「そうですよ」
夫人の小顔が綻んで、笑顔になった。僕は年の差も顧みず、夫人が綺麗な女性だと思った。彩さんも小顔だったけど、彩さんは髪を長めに肩くらいまで垂らし、前髪を両目の辺りまで下げていた。母親とは大層イメージが異なっていた。笑顔が少ない彩さんだったが、まだ未熟で反抗的な可愛いらしさがあった。正直、二人とも個性があった。僕は二人にほのかな好意を寄せていた。
こうして、何とか家庭教師の初日はつつがなく終わった。
授業は週に四回だったが、二日目も初日と同じような話し合いで終わった。三日目の夕方、森田さんから携帯がかかってきた。
「大塚さん、喜んでいたよ。いい家庭教師が来てくれて良かったって。彩さんも君のこと、気に入ってるらしいよ。いままでの家庭教師は、すぐ辞めてもらったけど。君なら続けてもいいよって言ってるらしいんだ」
思いがけない電話に僕は驚いた。彩さんの家庭教師は、いつまで続くかわからないと自信をなくしていたので、望外の朗報だった。その日は久しぶりに満天の星で、まるで僕を励ますような星のきだった。頬に当たる夜風が心地良かった。
大塚家に着くと訪問者がいるらしく、いつになく賑やかだった。
彩さんの従姉妹が二人来ていて、帰るところらしい。
「それじゃ誕生日、楽しみにしてるから。あ、それとこの人、ウチの家庭教師なんだ。真面目そうだけど面白いんだ。まだどうなるかわかんないけど、まあ前の人よりはいいよ。ウチの話も聴いてくれるし。優しいし」
僕は気分が良かった。彩さんの部屋に入ると、彼女は少し上機嫌に、
「ねえ、来週の土曜日、ウチの誕生日会やるんだ。先生も来てよ。ねえ、来てよ! さっきの従姉妹たちも来るんだ」
と僕を誘った。
「え? 僕が? 場違いじゃないの?」
「そんなことないよ‼ 従姉妹にあんたのこと話したら、みんな喜んでたよ」
「いきなり言われても困るよ。お母さんはいいけど。お父さんが何て言うか」
「大丈夫だよ、親父は。どうせほかの女のとこに行って、家なんかにいないから」
「でも、何か心配だな。僕以外男がいないんじゃないの?」
「そんなの平気だよ。男も女も関係ないじゃん」
「そうかな……」
すると、彩さんは急に話題を変えた。