家庭教師
こうして、翌日から僕の家庭教師の生活が始まった。
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大塚家までは自転車で四〇分以上かかるので、僕は母のスクーターを借りて行くことにした。
バイクの免許は取得したばかりだった。玄関のチャイムを押すとすぐに夫人が出てきた。
「ご苦労さま。さあ、どうぞ」二階の北西の位置にある彩さんの部屋に入ると、夫人は申しわけなさそうに、
「それじゃ、よろしくお願いします」
と頭を下げ、階下に降りた。僕は彩さんと二人きりになった。初対面のような緊張した空気がさまよっていた。あらかじめ聞かされていた大塚家の実状が、僕の心の隅に重しのようにのしかかる。
しかし、それにあまり拘りすぎると何の前進もなくなってしまう。僕は未来だけを見つめるようにした。
「彩さん、こんばんは。松本って言うんだけど、よろしくね」
彩さんはスマホをいじっていたが、悪いと思ったのかスマホの電源は切った。しかし、何も言わなかった。
「今日は初めてだから、簡単に自己紹介でもやろうか」
僕がそう言うと、彩さんは、
「勝手にやれば」
と冷たく突き放す。
それでも僕は意に介さず自己紹介を始めた。
「僕は、早稲田大学一年の松本悠斗です。よろしく! 君は?」
「あ、そ。とりまよろしく」
「え、何て言ったの?」
「そんなのわかんねえの? とりあえずよろしくだよ」
「あ、そうなんだ。JC語か……」
ギクシャクはしているものの、とりあえず会話はできたので僕は先を続けた。
「彩さんは、何が好きなの?」
「そんなの聞いてどうすんの?」
彩さんは面倒臭そうな顔をした。僕は折れそうになったが、何とか自分を奮い立たせた。
「だって、いろんなことがわからないと勉強やりにくいでしょ」
彩さんは黙っていた。当たり前のことだが、相手が何か話してくれないと、会話は続かない。何でもいいから、口をきいてくれれば進展するのだが。なかなかうまくいかない。
仕方ないから、一人芝居みたいにしゃべってみた。
「さて、今日は何をやろうか? 英語、それとも数学?」
しばらく沈黙が続いたあと、彩さんが口を開いた。
「どうでもいいけどさ、ウチ、勉強なんかやらないよ」
「え! 家庭教師なんかいらないってこと?」
「まあ暇だから別にいてもいいけど。勉強は嫌いだから、絶対やらない」
「そうなんだ。そっか……。まあ、勉強好きな人なんか、いないけどね」
その言葉に安心したのか、彩さんは少し緊張を和らげた。