私は強くない
このように破天荒に生きていると強い女だと誤解されるが、それは大きな間違いだ。
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もちろん私には強い面が沢山ある。普通の女ならテントを担いでフェリーに乗ったりしないし、雪の中ジムニー一台で上京したりしない。
私にはただ、そういった常識では考えられないことを実行に移す力があるだけで、それは決して強さではないのだ。
寧ろ私は弱さの塊だ。人々の表情一つに傷付き、人々の言葉一つに幻滅し、人々の思考が見えた時に絶望する。そうかと思えば、自分にとって残酷なことをしでかす時もある。人々には惰性でも続けるという力がある。
それは、組織や家族や故郷という枠組みで生きているかどうかの違いのような気もする。私は若くして自由を手に入れたがために、我慢を知らない。
一瞬でも違うと思ったら、全速力でその状況から脱出する方法を探る。それは自分を守る術でもある。そうして住居も職業も転々としているのだが、それは強さではない。
その状況で耐え忍ぶ力がないのだ。空の上でふわふわ浮いている風船のように、どこまでも流されている。風船が割れないように。
私は、強気だが非常に脆い一面がある。強気に生きた後で、どうしようもない寂しさに襲われる。それは、日々繰り返されることだ。自分の居心地のいい空間をひたすら求めていたし、自分を無条件に受け入れてくれる人をずっと探していた。
本来は、そんな環境もそんな人も存在するわけがないとわかっているけれども探しているのだった。それを輝く草原と呼び、普遍的な愛と呼んでいるが、人々にとってはそれが家族であり、故郷であり、実家なのだろう。
私には帰る場所がないからそれを探す旅を続けているが、旅の目的が、居場所を探すことになっているから難しい。何故なら、それは探すものではなくて自分で創るものだからだ。
自分の意思でその場所を決め、そこから自分の故郷のようなものを形成して行かなければならない。そこには普遍的な愛情というものは存在しないということもわかっている。
出会う人全てに親のような愛情を求めているわけではない。傍観者としてエールを送ってもらいたいだけだ。昔は違った。やはり、出会う人々に対して欲深い部分があった。表面には出さないが、心のどこかで他人という括りを受け入れられなかった。
しかしそれらはもう解決済みであり、むしろ社会に愛されることを探っている部分の方が大きい。割り切りができすぎてしまったことは問題かもしれない。何故なら、一生車とぬいぐるみを家族としていていいわけがないだろう。