「ここには古くからロイド家の別邸がありましたの。広大な敷地に建てられたカントリー・スタイルの建物で、市の歴史遺産にも指定されているほどのものです。私は市役所に赴いて出生証明書と戸籍謄本を取り寄せました。現在この別邸を管理している執事にも、さりげなく当時の様子を聞きだそうとしました。
でも、昔とはすっかり変わってしまって。もちろん、乳母がいるはずもなく、残念ですが何も分かりません。私の部屋がそのまま残されていましたが、家具類は全て白い綿布で包まれていて、まるで時間が止まってしまったかのようでした。役所から取り寄せた書類を隅から隅まで幾度となく目を通しましたが、何の問題もなさそうでした。
[出生証明書:名前 エリザベス・ヴォーン。第一子。女。
筆頭者:父、エドワード・ヴォーン
母、キャサリン・ヴォーン
1965年4月6日ブリストルにて出生]
そのとき、傍らの書棚の存在に気がつくと、心臓が早鐘のように鳴りました。もしやと思ったのですが……、やはり小さい頃の写真など一枚もありません。
そういえば中学時代にこんなこともありました。子供の頃のアルバムを全部捲ったことがあったのですが、赤ちゃん時代の写真は一枚もなかったのです。
そのことを母に確かめると、アルバムはあるはずだけど、倉庫の奥深くにしまい込んでしまったから。お前が結婚するときには掃除をしなければねと」
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商