第一章 三億円の田んぼ
(八)
「あっ、ダメダメ。納豆は、使っちゃダメだす」
葉子が、業務用の冷蔵庫から納豆を出したとき、覚えのない大声に叱責された。
驚いて振り向くと、キッチンの入り口に、ぽっちゃりした女性が立っている。
身長は、小柄な葉子より、さらに少し低い。年齢は、一回りくらい上だろうか。おかっぱ頭で、ブラウスの上に、カーディガンを羽織っている。背筋を真っ直ぐ伸ばし、四角い皮の鞄を提げていた。
太ぶちメガネの奥に、パッチリとつぶらな瞳が輝いていた。どことなく、小動物っぽい。
ちょうど、葉子とタミ子、二人で賄いを作っているところだった。昼飯時が迫ってきたので、遠慮する秀造を押し切ったのだ。プロの中のプロ、タミ子はもちろん、料理記者歴の長い葉子も、料理には自信がある。
蔵の広い調理室も、清潔そのものだった。料理教室のキッチンスタジオのよう。大きなステンレス製の作業台が中心で、冷蔵庫が兼用になっている。その左右の端には、大型のシンク。作業台に向かい合った壁際に、大火力のコンロ。
ステンレス張りの壁には、すぐ手に取れるように、マグネットで包丁など調理道具が固定してあった。実用的な器具ばかりが、使いやすく区分けされて、きれいに並んでいた。この部屋の主の性格をよく表している。
「納豆菌は、すんごく強いっすから。酒造りの大敵なんだす。賄い飯作るなら、使っちゃならねえんだすよ」
確かに納豆菌ほど、元気な菌はいない。酒造りに紛れ込むと、麹菌や酵母が負けてしまう。確実に風味が落ちるため、酒蔵では、冬場の納豆は禁物なのだ。
どこの酒蔵でも、酒蔵見学者が納豆を食べて来ると、断っている。
「でも、酒造りに入らない事務員さんの分なら、大丈夫でしょ?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした後、メガネの女性は大ぐちを開けて笑い出した。
「なんと、賄いを作り分けてるのだすか。さすがだすな! つい、いつもの癖が出でしまって」
明るい笑い声につられ、葉子も笑い出した。タミ子も、爆笑している。
「お蔵の賄いの方ですね。日本酒と食のジャーナリストをしてる山田葉子と申します。こちらは、矢沢タミ子さん。居酒屋を切り盛りされてます」
「毎冬、賄いづくりに来てる佐藤まりえだす」
握手した手は、厚くて柔らかい。しっかり力が、こもっていた。
「あんた、いい手してるね。料理上手だろう?」
タミ子も、葉子と同じことを思ったらしい。
「とんでもねっすよ、タミ子さん。年季が入ってるだけだす。何、作ってるんだすか? おらも手伝うっすよ」
「そりゃ、ありがたいね。でも、今、来たばかりだろ。休んでなくて大丈夫かい?」
「なんも、なんも。ずっと電車乗って来たっすから、身体動かしたくて、しょうがねえっすよ」
まりえは、二十年以上も、冬の烏丸酒蔵で賄い仕事を続けて来たという。杜氏や蔵人と一緒に泊まり込み、一冬を酒蔵で過ごす。酒造りする者たちの胃袋を預かってきたのだ。