(5)宗教の善悪
本書では善悪について、「人間界至高の理念に調和することは善、調和しないものは悪である」と定義しています。しかし、宗教の善悪はこの定義と異なっています。
すなわち、宗教では:
① その宗教の聖典や教義を受け容れることは善で、受け容れないことは悪となります。
② 神の存在を信ずることは善で、信じないことは悪となります。
③ 宗教が神や仏の名を借りて説く善悪は、人類に普遍で絶対的なものとされています。
然るに、神の存否は不明であり、神仮説によっても神の言葉は存在しません(第5章A−1-3.)。又、その他の要素により、神の宗教もそうでない宗教も、宗教は紛れもなく人間が創った虚構にして妄想です。この考察の指し示すことは明らかです。それは宗教の説く善悪の不成立とそれゆえの否定にほかなりません。
どの宗教にも一般ですが、“勧善懲悪・信賞必罰”の思想が採用されています。すなわち、善を為す者は褒められ死後天国(楽園や浄土)へ迎えられるが、悪を為す者は罰として地獄へ落される、という常套的な思想です。さらに、これに止まらず、善を為す者は聖者として神聖視するという宗教上の造りもあります。
しかし、これは大変おかしな思想であり造りです。
理由は単純です。人類の善悪は、人類だけのもので、神や仏やそれらの名を借りた宗教などに何ら関わりのないことだからです。
本考察で明らかになったことは、善を為し悪を排することは神仏や宗教に関わりのあることではなく、専ら人類のためのものですから、人類以外の存在から褒められたり罰せられたりする類のことでないということです。
従って、善なる行為を守ることのできる人間は、聖者というような者ではなく、人間らしい人間とか賢者とか善人というのが妥当な評価であり呼び名になります。
神を全知全能にして完全な系と定義して、その神の存在・非存在を論ずることは知性に関わり、神仮説によっても神に基礎づけられたとされる存在しない人間界の道徳や倫理を騙ることは愚かに関わる、ということになります。