【前回の記事を読む】現在の「宇宙観」は、我々の知性・知的要求を満足させるに十分なものではない
第2章 人類の持つ宇宙観
1 神という宇宙観
1.神に思い及ぶ
自然神学的神の存在証明
世界の事物は、自明的に存在し、それらはきわめて精妙かつ、壮大な秩序と組織原理を持っている。太陽や星の運行を見れば、その規則性には驚くべきものがある。あるいは、植物の花や葉や枝などを見ると、信じ難い精巧さで造られている。動物の身体などは、更に精巧で見事であり、人間となると、もっと精巧である。
しかも自然世界は、草を食べる牛がいれば、牛を食べる狼や人間が存在し、空から降る雨は季節に大地を潤し、植物の生長を促し、その実の成熟を、太陽の光が促す。このような精巧な世界と自然の仕組みは、調べれば調べるほど、精巧かつ精妙で、人間の思考力や技術を遥かに超えている。
世界に、このような精巧な仕組みや、因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提になければ、説明がつかない。すなわち、自然の世界は、その高度な目的的な仕組みと存在のありようで、まさに神の存在を自明的に証明している。(これは後述する「有神論の目的論的証明」からの引用です。 →なお、この神の存在証明は無効です)
哲学者パスカルの場合
人間は無限に対しては虚無、虚無に対してはすべて(一切)であり、無と全ての中間に位置し、虚無も無限も見ることは出来ない。事物の原理も究極をも知ることができず、事物の外観を見る以外に何もできない永遠の絶望の中にある。不思議の虚無も無限も、事物の原理も究極もそれらの創造者以外に何びとも知ることはできない。
我々の知性は、知的なものの次元において、われわれの身体が自然の中の広がりのなかで占めるのと同じ地位を占めている。このような中で、人間が無限なる自然の探求に立ち向かうというような意図は、無限なる自然と同様に、無限な能力、あるいはうぬぼれなしには抱き得るものではないことに疑いはない。
(『パンセ』 パスカル著 前田陽一・由木康訳 中央公論新社2018年、からの筆者による大要です)
創造者の存在を感得し神観念を持つに至ったということについては数多の人がそれぞれの表現をしていますが、上記の二例でそれら表現の内容を概ね総括していると考えても大きな間違いはないものと思われます。我々は創造者の存在を仮定して漠然と神と呼ぶようになりました。神の誕生です。