「エリザベスさん、アートはお好きでしょうか?」
「はい、とても。特に現代美術には興味がありますわ。宗像さんは、明日、現代美術館に行くとおっしゃっていましたわね?」
「現代美術がお好きとは結構ですね。もし宜しければ明日ご一緒にいかがですか? 一人で見るよりも二人の方が楽しそうですし……」
珍しく押しの強い声がタクシーの後部座席に響いた。
「それは確かにそうですね。でもお邪魔ではございません?」
「いえいえ、一人旅は気楽なものですが退屈になりますから。素晴らしいものに出会っても、感激を分かち合える相手がいませんし。では……決まりましたね? まず芸術を、その後は……。そうでした、海と魚とポートワインにでもしましょうか?」
少しはにかみながら宗像が言った。
「それは良いアイデアですわ。それではお言葉に甘えさせていただきます。明日がとても楽しみになりました」
会話はさらに続いた。彼女の仕事を尋ねると、ロンドンでグラフィックの仕事をしているということだった。タクシーは裏道を走ることにしたようで、突然左のT字路に入り込むと、それまでの大渋滞が嘘であったかのように車が少なくなった。
低い角度の逆光がごつごつした石畳の地面を舐めて、コントラストの強いパターン浮き出させていた。タクシーは幾度となく右折左折を繰り返して、ホテル・アトランティックの玄関に横付けされた。
「それでは明朝十時にお迎えに参ります。美術館は十時にオープンしますが、すぐ近くですし、それで宜しいでしょうか?」
「ご配慮ありがとうございます。それでは明日十時、宜しくお願い致します」
エリザベスと名乗る女は車寄せに留まり、手を振りながら宗像を見送った。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商