フェラーラの描く妻アンナの肖像である。またしてもフェラーラか! 何だ絵葉書か? そうか、コジモはフェラーラの絵葉書をくれたのかと、苦笑いし、封筒にそれを戻そうとした矢先、絵葉書の裏面を押さえている人差し指の感触が、イメージと違うことに気がついた。
ハッとして、表を押さえている親指と、裏面に添えている人差し指とを、静かに横にずらしてみた。胸が騒ぎ、葉書を持つ右の掌がじとっと湿った。すると絵葉書の下から、別な紙が一枚、その姿を現したのだった。
それはカラー写真だった。くっ付き合っていたためか、一緒に取り出してしまったらしい。絵葉書を机に置いて写真の方を見たところ、それは誰かの家族写真らしかった。どこかは分からない部屋。
イーゼルが何組か立てかけられ、描きかけのキャンバスがそれぞれその上に乗っている。その前には、いかにも年代ものといえそうな、ゴブラン織りの布で包まれた古いカウチ・ベンチ。そこに二人の幼い女の子が座ってこちらを見ている。
あまり明るいとは言えない室内だが、高窓から射し込む陽の光が、ちょうどその家族を斜め上から捉えている。ニスが一面に塗られ、光沢のある飴色の脇机の上には、その口に溢れんばかりの絵筆を銜え込んだ大きい花瓶が二個。
机の上にばら撒かれた夥しい絵の具の数々。塗りたくられた分厚い絵の具によって、そのものが現代絵画の作品と見まごうようなパレット。直径三十センチメートルもあろうかと思える大きな灰皿と夥しいタバコの残骸。
写真を裏返すと、短い説明が青インクでこのように書かれていた。
[コジモ・エステ様 必要に応じてこの写真もお使いください。
ユーラ(左)、ユーレ(右)
一九六六年二月ピエトロ・フェラーラ]
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商