「透さん、今少しだけお時間いただけませんか?」
窓から差す日が落ちてきたころ、申し訳なさそうに僕の顔を覗き込んでくるのは一つ後輩、入社四年目の坂口。よほど立て込んでいるのか、締め切りに追われているのだろうか、片方だけ中途半端にまくられた袖口なんて気にもせず、手元の資料をがさがさ並べ直している。
パソコンのディスプレイに表示された時刻を確認すると十八時十五分。今日はこのメールの返信が終わったら退社しようと思っていたんだけど、なんてことは悟られないよう坂口の方にすっと体を向ける。
「明日のプレゼン資料だろ、いいよ」
聞き慣れないカタカナの業界用語に、早朝でも深夜でもお構いなしのクライアントからの着信。こんな環境で僕はやっていけるのだろうかと入社当初は毎日が不安だったけど、五年目ともなると慣れたもんだ。
才能あふれるクリエイターばかりが集まるこの会社では僕はごくごく平凡な存在だと思うけど、一生懸命に一つひとつ着実に仕事をこなす姿勢がいいと働きぶりを評価してもらい、今年からチームリーダーを任せてもらえるようにまでなった。ここ一年ほどは自分の担当している案件は夕方までにはなんとか片付けられるようになって、深夜残業なんて数えるほどしかしていない。
こうして後輩から相談を受けることも増えてきて、仕事にやりがいと楽しさを感じてきたころだ。
「一本だけ電話してくるから、ちょっと待ってて」
「……すみません、今日予定があるって言ってましたよね?」
「急ぎでしょ?」
「本当にすみません」
「謝らなくていいから、そういうときはありがとう、だろ」
「──すいません、あ、いや、ありがとうございます」
謝罪と感謝の言葉を言いながら、ぺこぺこと頭を下げる坂口を見ると、なんだか少し前の自分を思い出す。
いいんだよ、とふっと笑みを向けて執務室を後にする。
「大人の恋愛ピックアップ記事」の次回更新は11月1日(日)、19時の予定です。
▶この話の続きを読む
“その日”も1時間、待ち合わせに遅れることを彼女に伝えた。これまでも何度もあった。残業を理由に、約束を守れなかった。
▶『スノードロップー雪の雫の日記ー』の人気回を読む
「夕方の電話が最後の会話になった」…1時間後、彼女は変わり果てた姿で見つかった。帰宅ラッシュの中、歩道橋下に倒れていた。
ゴールドライフオンライン(GLO)は、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン(GLO)編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp