第八番の成立過程

第八番の成立過程で分かっていることは極めて少ない。マーラー自身がこの作品に言及するのは先の妻アルマへの手紙以外、メンゲルベルクに宛てた完成直後の興奮した様子くらいだろうか。

もちろん作曲した一九〇六年頃にはマーラーはいつもゲーテ『ファウスト』を持ち歩いていたことや、第一部の歌詞を至急送付してくれるように友人に依頼したなどの記録は残っている。ただこれらが総てなのだ。

一般論として個別作品創造の真の理由などそう簡単に分かるものではないし、時には作者自身も分からない。「天から降ってきたのだ」と。シェーンベルクが、『ワルシャワの生き残り』を作曲した経緯が明らかなのはむしろ例外的だ。ただ第八番の場合は歌詞が存在する。

第一部は、かつては中世の神学者ラバヌス・マウルスの作とされたが、作者不詳の聖霊降臨節のための讃歌『来たれ、創造主たる聖霊よ』、第二部はゲーテ『ファウスト』最終場面だ。

それもほぼカットなしに全曲にわたり歌われる。この歌詞を中心に考察を進めれば何らかの正当な推理にたどり着けるのではないか。だからこれは学問的な探求ではなく、あくまで状況証拠を組み立てた推理と言える。

それではその推理に向かい、逆順だがまずはゲーテ『ファウスト』の最終場面から見ていこう。以下この最終場面を「山峡」と統一させていただき、単に『ファウスト』といった場合はゲーテ作を指すこともご了承いただきたい。

「山峡」

この『ファウスト』の最終場面は『ファウスト』全体から見ると極めて特殊な場面だ。それまでは主人公ファウストの無神論者的行動や、その相棒メフィストフェレスとの丁々発止の掛け合いが生き生きと描かれ、その突拍子もない発想やエピソードに心躍る思いがする。

それがこの「山峡」に至ると、にわかに硬直し芝居がかり宗教じみるのだ。極端な印象としては『ファウスト』全体から見ると、この場面は極めて不自然で、ないならない方がむしろ自然かも知れない。だからこの「山峡」は単独では決して計り知れず『ファウスト』全編との関係においてのみ、その意味が生まれ且つ明らかとなる。

その意味を明らかにするためには『ファウスト』全体を手短に振り返る必要がある。

試し読み連載は、今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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