当時祐子は建設省の派遣社員で同い年の20歳でした。今では考えられませんが当時は高校を卒業したら当たり前のように酒・タバコは解禁でした。仲間と一緒に飲んでいるうちに自然に交際が始まりました。
一年の仕事は2月頃始まりますが、出航の時に岸壁で泣きながら佐賀明神丸の船を見送ってくれた祐子。私も何度も鳴る合図の長い汽笛の音が辛くて、淋しさにあふれる涙を拭きながらテープを握っていた記憶があります。黒潮町から車で90分くらいの近くの深浦という漁港で水揚げをすることがたまにあった時に会いに来てくれました。
2月初旬頃、一年のうちの約10ヵ月に及ぶ鰹一本釣り漁の出航の日は、毎年のことながら感動的です。佐賀の港では岸壁に船を縦に着け、乗り組む男たちは艫(とも)に掛けた細いタラップを使って何度も岸と船を往復して大量の飲み物や食料品を積み込み準備に忙しく立ち働きます。港には出航を見送るために家族や関係者や報道関係者が大勢詰めかけてきます。
準備が出来るとつないでいた舫(もや)いを解いて船は岸を離れ、別れを惜しむかのように長い汽笛を何度も鳴らします。「いっぱい釣ってきいや」「体に気を付けてな」と女たちは口々に声を掛け、色とりどりの紙テープを切れるまで握りしめて船が港の先を左に回って見えなくなるまで見送るのです。
付き合い始めて2年くらい経った時、二人とも22歳の冬でしたが、祐子から子供が出来たことを告げられて嬉しくてすぐに結婚を決めました。その年の1994年11月11日に長女、智加が生まれました。私は沖に出ていたので、12 月になって漁から帰って初めて娘を抱きましたが不思議な感じでした。
私が漁師を辞めて佐賀明神丸を降りるということは明神家とも距離を置かなくてはならないということだと思っていて、佐賀黒潮町から離れて中村市内で働くか高知市内まで視野に入れるかと、考えたこともありました。
漁師を辞めてからの自分は陸(おか)の仕事に夢を抱き、これからは家族と一緒に生活をするために何の仕事をしようかとワクワクしていました。私と祐子が28歳、娘が5歳でした。どんな仕事でもして家族を養っていかなくてはなりません。勇んで職安に相談に行き、私の学歴、資格、職務履歴を用紙に記入し、月に30万くらいの収入があればなんとかなると伝えました。
それまでの私は優秀船に乗っていたので20代で年収1000万以上の時が3年くらいあり少ない時でも年収600万~800万ぐらいは稼いでいました。
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「家族と一緒に暮らしたい」と船を降りた。しかし、陸には海にいた頃より稼げる仕事はなく…パチンコに逃げる生活になり家族は…
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