「私は大丈夫です。母も家で吸うし、慣れているので」

私は自分の前で何かを我慢するあの人の姿を見たくなかった。私の前ではいつものあの人でいてほしかった。するとその思いが通じたのか、それとも我慢が限界だったのか、「じゃあ、一本だけ」と言って、あの人はダッシュボードからタバコを取り出した。

タバコの煙を口から吐き出したときのあの人は生き返ったようだった。そのわかりやすさに私は思わず笑った。

「そうとう我慢してたんですね」

「わかる? 今日は一日ずっと我慢するつもりでいたんだけど」

「そんなこと気にしないでください。この車は先生のなんだし」

「でもこの一本だけにしとくよ」

あの人はそう言いながら美味しそうに煙を吸い込んだ。車内はすぐにタバコの煙が充満した。私はその煙さえあの人の一部に感じた。

「私、この前先生とドライブしている夢を見たんです」

「まさか僕タバコ吸ってた?」

「吸ってました」

「じゃあ、正夢になったわけだ」

「あとやっぱり夢の中の先生も右手で運転してました」

「すごい的中率だね」

そして、その後あの人は私の手を握る。それがはたして正夢になるのだろうか。私はどこかでそれを期待している自分に気がついた。

会話が途切れたが、ラジオから流れる知らない曲が緊張した空気を和らげた。私はあの人を見た。何度も見たのにはじめて見るように。でも、私の目に映ったのは本当にはじめて見るあの人だった。

あの人は教壇の上にいるときとは別人だった。単にワイシャツの代わりにセーターを着ているせいだけではなかった。教科書の代わりにハンドルを握っているからでもなかった。タバコを吸っているからでも、シートに背をもたれリラックスしているからでもなかった。あの人は男らしかった。自信に満ちていた。

その目は生徒の誰とも視線を合わせないときの臆病なあの人のものではなかった。きっとそれは限りなく本当のあの人に近い姿だった。そしてそのとき、限りなくあの人の心の壁はなくなっていた。

私はいつもよりずっと近くにあの人を感じた。廊下で話をしているときよりもずっと近くに。だから会話がなくても、寂しくなかった。むしろ、無駄な言葉を並べるくらいなら黙ってあの人を感じていたかった。

車はいつの間にか本線を外れ、高速の出口に向かって走っていた。

「海に行くのっていつぶりなの?」

「いつだろう。小学生のとき、家族で行って以来かな」

「じゃあ、だいぶ経つね」

「先生はいつぶりですか?」

「三年ぶりくらいかな」

「そのときはどこの海に行ったんですか?」

「浄土浜っていう岩手にある海」

私は誰と行ったのか気になったが、聞くのは我慢した。過去にあの人が誰と付き合おうが私には関係ないことだった。今あの人が私と一緒にいることに意味があった。