付き合い始めて1年が経った頃、渉は千春に言った。
「結婚してほしい」
武蔵の定休日の夜だった。千春の部屋で、2人で夕食を食べ終わった後だった。特別な場所でも、特別な演出でもなかった。ただ、言いたくなったから言った。
千春は少し目を見開いた。
「……急だね」
「急だった?」
「急だけど……うれしい」
「じゃあ」
「うん」
千春は笑った。
「結婚しよう」
渉は千春の手を握った。千春も握り返した。
入籍したのは、翌月のことだった。式は挙げなかった。区役所に書類を出して、帰りに近くのレストランで2人でごはんを食べた。
「中村千春になった」と千春が言った。
「どんな感じ?」
「なんか……うれしい感じ」
渉は千春の顔を見た。本当にうれしそうだった。渉も、うれしかった。
(この人が、俺の家族になった)
家族、という言葉が、渉には長い間怖かった。家族は、壊れるものだった。家族は、裏切るものだった。でも今は、違う気がした。
その夜、千春が眠った後も、渉はしばらく起きていた。天井を見た。
(俺にも、家族ができた)
その事実が、じわじわと胸に広がった。嬉しかった。それだけだった。
千春の寝顔を見ながら、渉はそう思った。どんなことがあっても、この人のそばにいよう。病気があっても、不安があっても、自分がそばにいる。そばにいて、守る。それだけは、ずっと変わらない。
渉はこのとき、29歳だった。
次回更新は9月30日(水)、22時の予定です。
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