「うん。渉くんのことを、ちゃんと知りたい」
渉はしばらく黙っていた。窓の外で、風が木の葉を揺らす音がした。
「……長くなりますよ」
「長くてもいい」
千春は椅子を引いて、渉の向かいに座った。まっすぐ渉を見ていた。
渉はゆっくりと、話し始めた。
母のことから始めた。父の不倫のこと。母が自殺したこと。父の再婚と、継母のいじめのこと。父が死んで、行く場所がなくなったこと。18歳で家を出て、女性専用のリラクゼーションサロンで働いたこと。ストーカー被害に遭ったこと。SNSに嘘を書かれて、仕事を失ったこと。ネットカフェで暮らしていたこと。
全部話した。
話しながら、千春の顔を何度か確認した。引いた顔をしていないか。嫌そうな表情をしていないか。
千春はずっと、まっすぐ渉を見ていた。途中で視線を逸らさなかった。
渉が話し終わると、しばらく沈黙が続いた。
「……引きましたか」
千春は首を横に振った。
「引いてない」
「本当に?」
「本当に」千春はまっすぐ渉を見たまま言った。「よく、ここまで来たね」
その言葉が、渉の胸に刺さった。
よく、ここまで来たね。
誰かにそう言ってもらったのは、初めてだった。頑張ったね、でも、すごいね、でもなかった。ただ、よく来たね、という言葉。それだけが、今の渉には一番響いた。
目の奥が熱くなった。泣くつもりはなかった。でも、止まらなかった。
渉は俯いた。涙が、膝の上に落ちた。
千春は何も言わなかった。ただ、テーブルの上に置かれた渉の手に、そっと自分の手を重ねた。
温かかった。
次回更新は9月28日(月)、22時の予定です。
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