【前回の記事を読む】父亡き後、食事を出しもらえなくなり…継母は「いつまでこの家にいるの?」と笑った。僕は生ゴミ袋にあったコロッケの衣を手に取って…

1.

高校2年の冬、こんなことがあった。

夜、渉が風呂掃除をしていると、点検に来た絵里子が、タイルの隅にあった髪の毛を指差し、大げさに顔をしかめた。

「なにこれ。……あんた、わざと手抜きしてるんでしょう」

「違います。ここはこれから掃除しようと思っていました」

思わず顔を上げた渉の目を、絵里子は憎々しげに睨み返した。

絵里子は渉に迫りながら、激しく責めたてた。

「その反抗的な目つきは何よ。養ってもらってるくせに、私に逆らう気?」

後ずさった渉の背が、冷たいガラス窓に当たった。結露が長袖Tシャツ越しに渉の背中に浸みていく中、絵里子は吐き捨てるようにこう言った。

「外の風に当たって反省してきなさい」

渉は氷のように冷たいベランダへと押し出され、肩から柵にぶつかった。見上げると、窓の鍵がカチャリと立てられる無慈悲な音がした。

1月の夜だった。渉は薄着でセーターも着ていなかった。ベランダのコンクリートが、足の裏の感覚を奪っていった。手すりを掴むと、鉄が手のひらに貼りつくほど冷たかった。

ガラスの向こうで、絵里子と悠斗がテレビを見ていた。暖かい部屋の、オレンジ色の光。笑い声が、ガラスごしにくぐもって聞こえた。

渉はベランダの隅にしゃがんで、膝を抱えた。歯が鳴った。体が芯から震えた。吐く息が白かった。やがて、指の先の感覚が、なくなっていた。

そのとき、ふと、手すりの向こうの夜空が見えた。星が、いくつか、瞬いていた。

(ここから飛び降りたら、この寒さも、終わるんだろうな)

ぼんやり、そう思った。

(もう、生きていたくない)

はっきりと、言葉になった。17歳の渉は、ベランダの手すりに、額をつけた。鉄の冷たさが、額に焼きついた。一歩、足をかければいい。それだけで、ぜんぶ終わる。

そのとき、ガラス戸が、かたん、と開いた。

悠斗だった。5歳の悠斗が、こっそり、戸を開けてくれたのだった。

「にいちゃん、寒いでしょ」

悠斗は、自分の毛布を引きずってきて、渉の肩にかけた。

「ママには内緒だよ」

渉は、毛布の中で、悠斗の小さな手を握った。その手だけが、温かかった。

(生きていたくない。でも——この子だけは、俺を、にいちゃんと呼ぶ)

渉は悠斗の頭をそっと撫でた。涙が出た。寒さで、頬の上で、すぐに冷たくなった。