「あなたね、過去にしがみつくと、新しい人生は始まらないのよ」
そう言って、段ボールを引っ張った。渉は離さなかった。11歳の手で、必死に箱を抱え込んだ。絵里子の手が、渉の手の甲を叩いた。痛みより、母のものが奪われそうになっていることのほうが、ずっと怖かった。
最後はカーディガンと小箱、それから写真アルバム1冊だけを段ボール1つに詰め込んだ。母の9年ぶんの生活が、わずか1箱になった。
新しい家での生活は、最初から息が詰まるようだった。
絵里子には細かいルールがあった。問題は、渉だけがそのルールを破ったとみなされることだった。
「渉くん、また洗面所が濡れてたけど」
「渉くん、ごはん粒のこってる」
父がいるときも、いないときも、絵里子の声は渉に向かって飛んだ。父はそのたびに「渉、ちゃんとしなさい」と言った。一度もかばってくれなかった。
ある日、渉が学校から帰ると、玄関の鍵が開かなかった。鍵を差し込んでも、引っかかって回らない。インターホンを鳴らした。中に人の気配はあった。テレビの音もしていた。それでも、誰も開けてくれなかった。
「ただいま、お願い、開けて」
インターホンに向かって何度も叫んだ。
4月の半ばだった。日が落ちると、まだ冷たかった。マンションの廊下で、渉はランドセルを抱えて座り込んだ。1時間。2時間。空が、紫色に変わっていった。
夜8時、父が帰ってきた。父は廊下に座り込んでいる渉を見て、目を見開いた。
「なんで外にいる」
「鍵が、開かなくて」
父が部屋に入って、絵里子と何か話していた。やがてドアが開いた。
「ごめんね、渉くん。鍵、ちょっと不調みたいで」
絵里子はにっこり笑った。父の前では、いつも笑顔だった。
それからも何度か、玄関の鍵は「不調」になった。雨の日も、雪の前夜も。
半年が経った頃、絵里子のお腹が大きくなってきた。父も嬉しそうだった。渉だけが、その輪の外にいた。
弟・悠斗が生まれたのは、渉が6年生になった冬だった。