【前回の記事を読む】「しばらく別の耳を借りる」私の左耳だけを3週間見続けた男。その言葉を本命の彼女も了承していて……

耳

耳に残る ほのか三十五歳

速水の向かいに座って驚かしてやろうと2、3歩、ほのかが歩み寄ると、ふっくらした女性が横切ったので、慌てて店外の通路に退いた。カーキ色の綿素材のワンピ。左胸の上のほうに花をかたどったアイボリーの布ブローチがいいアクセントになっている。

「えっ、あれは私が発信したYouTubeのまんまだわ! 私の動画を見ているに違いないわ」

嬉しいんだが混乱してくる。

ノースリーブから覗いた腕はぎりぎり許せるくらいに太めな柔らかそうな腕。そのまま顔に目を移した。どう見ても50代ではないか。おばさん。掛け値なしのおばさん。なんならほのかのお母さんに近い世代ではないか

ただあのお年で精一杯のトレンドも抑えたお洒落。好感が持てるのはそもそも私が提唱した着こなしだから? 彼の母親としては若すぎる。まさか。あれが彼女? 女神ですって! 混乱してくる。

彼女に気がついた彼はすくっと立ち、彼女がドリンクを持って座るまで気をつけをしていた。何かの間違い。そう叫びたいが、間違いではない。なぜならば彼女は右耳に髪をかけて、敢えて彼のはす向かいに座ったから。

買い物も忘れて走って家に帰った。今週も来ている母が、珍しく炒め物とお味噌汁を作ってくれていた。今日も智樹は遅いようだ。

浮気しているんじゃないか。今までいわないようにつとめてきたけれど、もうその疑念は蓋ができない。でもそれが100パーセントの悩みにはならない。なぜならばほのかの心のもう7割近くを速水が占めていた。

「はるきちゃん、お利口さんだったわよ。よく寝てくれてたから料理もできたし、寝起きもほら、こんなにご機嫌」

母の腕の中で智樹そっくりの小さな顔で笑っている。

あ、と初めて気づく。こんなに頻繁に娘の所に母が来ることも、智樹が早く帰らなくなった一因なのかも。

「お母さん、来週は来なくても大丈夫だよ」

「そうなの~?」

母は口を尖らせたまま首をひねっていた。家に居たくない理由でもあるのだろうか。でも、実家の夫婦事情は私の範疇ではない。

速水とのデートが終わってふた月。

駅ビルで雑貨をふらふらと見ていたほのかは、はっと物陰に隠れた。あの女だ。可愛いパッケージのハンドクリームやハーブ系のボディクリームを見ている。

少し逡巡はしたが思いとどまれなかった。気がつくと呼び留めていた。

「すみません……人違いでしたら申し訳ありませんが」