【前回の記事を読む】急に目の前が真っ暗になり、階段を転げ落ち…栄養失調と過労だった。両親には連絡できないから、担任教師が入院代を払ってくれた。

第三章 なれそめ

ちょっと話が脱線するけど、私は中学二年の共通学力テストで全国二位の成績を取ったことがある。それから走り高跳びで東京都二位になったこともあった。喜び勇んで父さんに表彰状を見せると、決まってこう言われるのだった。

「一位が取れなきゃビリと一緒で価値なんて何もないんだよ。一位が取れなきゃいちいち俺に見せるな」

〈人間って親がやることを、そのまま子どもはやるようになるのですね──。今となってはじいちゃんにそう言ってやりたい〉

ともあれ、父さんの高校入試の結果は残念ながら二位だった。酒に酔うと、父さんは合格発表の帰り道の夜のことを、何度も私たちに繰り返し話した。「発表を見てからなぁ、帰りたくなくて家まで汽車にも乗らずに、ずっと長い線路を市内から家まで歩いたよ。何時間も。暗くなってよぉ。家に着いてもな、どうしても中に入れないんだ。泣いたなぁ。悔しくて……」

昭和二十八年、父さんは中学を卒業すると、すぐに神戸のうどん屋へ丁稚奉公で働きに出されることになった。神戸まで付き添ったじいちゃんは二年分の給金全額を前借りして徳島へ帰って行った。

奉公先の神戸のうどん屋には父さんと同じ歳の一人息子がいた。そいつは奉公人をバカにするタイプの奴で、父さんたち奉公人は大した理由もなく散々な嫌がらせをされた。罵られ、囃子(はやし)立てられるのに加えて、配達のうどんをわざと体当たりしてひっくり返す、持ち物を隠す、部屋で寝ているところを踏みつける、いきなり殴りかかってくるなどは日常茶飯事だった。

それでも奉公先の大切な一人息子。父さんとは立場が違う。奴が普通に高校へ通うのをうらやましく見ながらも、父さんは朝四時から掃除をし、うどんの出前をし、店の片付けをし、雑用をしながら夜遅くまで毎日身を粉にして働いた。

まだ十五歳の父さんにとって「勉強をしたい」と渇望すればするほど、それは悔しさが募る辛い日々となった。

里帰りも許されず、そんな毎日を二年近く辛抱した十七歳のある冬の早朝。

うどん屋の息子は質屋から手に入れたばかりの日本刀を手に、いきなり父さんの部屋の襖を開けるや否や、刀を大上段に構え「イャア〜! 死ねぇ〜!」と奇声を上げて、まだ布団に寝ていた父さんに切り付けてきた。