【前回記事を読む】「冷たいでやす」誰もいないはずの草むらから女の声が――怯える若い男に、見えない女がさらに囁いた
川蛍
吉佐は宿賃にする僅かのお金を胴巻に隠し持っていたが、それが感づかれないか気がかりだった。両手で腹の胴巻を強く押えた。
「野盗じゃないですよ。心配しなくてもいいですよ。貴方にお願いしたいことがあったので声をかけたのです。水がかかったことを怒ってもいません。むしろ久しぶりに清らかで冷たい水に出会って嬉しいくらいです。どこで汲んだ水ですか」
「道場の渓谷で汲んだ谷水だ。養老の滝のような香しい霊酒(れいしゅ)ではないが、いつも汲んでいる谷水だ」
吉佐は答えるのが精一杯だった。声はすれども姿が見えない相手に吉佐は少し怯えていた。さりとて逃げ出すこともできない。相手が何者なのか、得体が知れなかった。多分、今宵のお客が見つからなかった辻君が絡んできたのだろうと思った。食いっぱぐれた乞食女にしては、言葉が丁寧すぎた。
「頼みがあるというなら姿を見せろ! それが礼儀というものだ」
吉佐は全身の勇気を振り絞って見えない相手に叫んだ。
「それは、そうですね。ごめんなさい。それでは姿を見せますが、驚かないでくださいね」。少し艶っぽい声で語りかけてきた。
月明かりを映した川面に、霞のようなぼんやりとした人形(ひとがた)が浮かんだ。人形は段々とその姿が明瞭となり、しばらくすると顔や着物の色合いまでもが分かるようになった。
月に輝く川面を背にして、鮮やかな色合いの着物姿の美しい女人が一人立っていた。背景には遊郭の軒下に吊るした赤い提灯が点々と帯になって輝いていた。
「幽霊じゃないだろうな」
吉佐は女人に向かって問いただした。その声からは先ほどまでの震えは消えていた。目の前に、この世のものとは思えない美しいものを見ていると、一瞬恐怖心が消えていた。
「幽霊なんかじゃありません。こんなきれいな幽霊がいることなど、聞いたことありませぬ」
女人は東の空を昇る月を背にして答えた。
「足が見えないじゃないか! 足がないのは昔から幽霊に決まっているんだ。騙されるものか」
吉佐は再び頭をもたげてきた臆病心を押さえて、必死に堪(こら)えた。
「おほほほ……。足ならばありますよ。ほらね……」