「本当のところはな、ヴォーン氏の正体も実はよく分からないらしい。アイルランドの貧しい家に生まれたとの噂もある。創設者である先代のロイド氏の一人娘と結婚して間もなく、当のロイド氏が亡くなってしまったのだ。
そのロイド氏、奥さんとは十年前に離婚していたから、ロイドの全てを一人娘が相続することになったんだ。ということは、その婿であるヴォーン氏が全てを掌握することになったも同然ということさ。だが、このヴォーン氏もロイドの末裔であるその奥さんを六年前に亡くしていてね、残されたのは一人娘だけというわけだ。
今、彼女はグラフィック・デザインをやっているようだから、家業を継げるような仕事をしてきたわけではない。ヴォーンさんも、もっと早く娘を後継者として育てるべきだったよ。婿をとるとかしてでもな」
「お嬢さん、まだ独身なのか?」
「そうだ。かなりの美人というのにな。ヴォーンさんだが、日頃から頑健そのもので、病気一つしたこともなかったようだ。だが今回は心臓だったと言われている。ロイド財団もこれからいったいどうなるのか? ところで宗像、これからどうするんだったかな?」
「予定通り明日の午後ポルトガルに発つよ。休暇はあと九日間だ。フェラーラは一九七二年にポルトで死んだとモーニントンさんに言われてな、ポルトにも立ち寄ってみようかと」
「おいおい、お前、昔からこだわる性分だったが、ちっとも変わらんな。だがいまさらポルトくんだりに行って何が分かるというのだ?」
「ポルトガルは初めからの予定だから、何も変わったわけではないさ。それに今回、ロンドンで出会ったフェラーラの絵とは何かの縁だよ。心地、この件でまた相談をするかもしれないがいいか?」
「あきれた奴だな。しかし俺にできることなら遠慮せずに連絡しろ。フェラーラのことはこちらも気にかけておく」
「すまない。恩にきるよ。いずれにせよ帰りには一日か二日、ロンドンに立ち寄る。ポルトガルからまた連絡を入れることにする」
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商