【前回の記事を読む】久しぶりに父を見た。猫撫声で「今どこに住んでるの?」と囁かれ、母の間男の家を指さしてしまった。その夜、窓が砕け散る音が響き…
第一章 逃走
その六年後、私が小学三年生の夏休みのことだった。母さんは長い置き手紙を『明星』の付録で手に入れた大切な郷ひろみのサイン色紙の裏に残して、タエだけを連れて出ていった。でも、この時も母さんの家出は二カ月ぐらいで父さんに連れ戻されて終わった。
ウチはいつもこんなことを繰り返してばかりいた。 血だらけの私が都立大学駅に着く頃には、陽がすっかり暮れてしまった。駅前のスーパーも閉店準備を始めている。〈駅の改札を出てくる人はコートの襟を合わせて寒そうだけど、家に帰ればすぐに部屋で暖まるんだろうなぁ〉。ズキズキと痛む頭でそんなことをぼんやり考えた。
母さんとタエがどこに住んでいるのか正確には知らなかったし、駅前に来たところで会える確証はなかった。しばらくたたずんでいると、誰かが呼びに行ったのか、交番の警官が私の様子に気がついて、こちらへ向かってくる。
〈マジかぁ、お巡り? どうしようかな、逃げきれるかな? でも足が痛いなぁ。怪我のことを聞かれるよなぁ、「誰にやられたの?」って。それは言えないしなぁ〉
警官が声をかけようとしたその時だった。ナイスタイミングで二歳年下の妹タエが偶然にも、たまたま通りかかったのだ。駅前の喫茶店のアルバイト帰りだった。
タエは目を真ん丸にして
「なに? なに? お姉ちゃん、どうしたの? 父さん? うわうわ、ひどいね」と説明しなくても、彼女はすぐに事情をのみ込んだ。私が警官のほうをうかがうと、彼女はよろける私を脇から支えてくれ、そのまま自分たちの住まいへと案内してくれた。
〈賢いぞ、妹よ! アンタっていい子ね!〉
救いの神が現れたのに、頭の中には大好きなシンガーソングライターが歌う『あした天気になれ』という曲が流れていた。罪悪感にかられながら、こんなことを考えた。
自分を雑に扱う人からは我慢せずに逃げなければならない。一線を越えた行為やひどい言葉を辛抱すれば魂が死んでしまう。その相手がたとえ親であっても……。
〈だから今日、父さんを見捨てても仕方がなかったのよ。どんなに親が恋しくてもね〉