【前回の記事を読む】彼女は呼吸に伴う身体の動きを観察し、モダンダンスの技法を完成させた。特に下腹部を繰り返し強く動かすと、同時に性的快感も得られるといい……

パートⅡ 無意識と舞踊創作 ―現代舞踊の歴史―

魔女の踊り(Witch Dance)1914、1926

生涯でもっとも「偉大な」独舞といわれるダンスの創作動機をThe Language of dance by Mary Wigmanで語っている。

「ある晩、私は全くさわがしく自分の部屋に戻ってきた。そして、偶然に鏡を見た。そこに映し出されたものは、人間の持っている野性的で、気持ちの悪い、反抗的な、しかし魅惑的なイメージであった。髪はぼうぼうとして、目は眼窩の中へおちこみ、ナイトガウンは色あせ、それは殆ど形を成さないほど、からだを露出させていた。すなわち、そこでは彼女は―魔女―であった」

自身のイメージにぞっとしながら、この恥知らずな赤裸々な姿をさらすことを許してはいけないエゴの一面を見出した。

しかし、すべての女性にすこしばかり、魔女的なものを持っているという考えに至った。これらフォームをそこから起こってくるエネルギーの強弱をコントロールすることによって本質へと近づける作業を通して芸術作品へと近づける。

「踊るということは、身体を動かし、目にみえない内面の感動を眼にみえる身体の動きへと変化させること」であり、「表現とは、魂の無意識の動きが意識された身体の状態へ現れることである」と述べながら、「私たちの内部にある現世的なものと神的なものを婚姻させる」との言及から、魂の無意識の動きが現世的なものと神的なものと婚姻し、意識された身体の動きとして現れることを示唆している。

1922年以前に交際していた恋人に精神科医ハンス・プリンツホルンがいた。彼は『精神病者の造形作品』を執筆中で、アスコーナで二人は共に過ごし、当時ゲシュタルト心理学の台頭と深層心理学者ユングも参加していた。

アスコーナ

メリー・ヴィグマンの芸術形式と重大な関係にあり、モダンダンスの生まれ故郷といわれているほど、表現舞踊とは切っても切れない関係にある。

スイスの西南、フランスとイタリアに接するところに横たわる大湖ラーゴ・マジオーレの北側の岸にある小さな漁村がある。

その湖岸から穏やかに、しかも高く、広がる丘陵一帯がモンテ・ベリタで、自然主義の旗の下に、脱文明を標榜する知識人や芸術家が集まった。全盛期は1913年-1920年で第一次世界大戦のさなかであった。

「真理の山」と名付けられ、アナーキズム、神秘主義、改革運動、モデルネ*1の芸術家たち、ジャーナリスト、医師たちが集まった。

モデルネの芸術のうち舞踊は強い関係があり、イサドラ・ダンカン、音楽家ジャック・ダルクローズなどが滞在し、1913年夏にはラバンが舞踊学校の分校を開き、ヴィグマンもここに加わった。

中央ヨーロッパでは19世紀末から20世紀初頭にかけて、古典バレエを否定し、新しい舞踊を模索していて、結果として芸術形式としての「表現舞踊」が生まれた。

ウィグマンは1919年アスコーナを去り、ドイツに帰った。そして、ドレスデンで23年間教育と創作活動を行った。

1918年世界大戦に敗れたドイツは物質の欠乏とインフレに見舞われていて、新しい人道主義が芽生えて文学、演劇、美術、建築、音楽、舞踊にも影響を及ぼした。このような時期にウィグマンの舞踊活動は熟成していった。

今から1世紀前、20世紀のモダンダンスを代表する舞踊家たちがユングやパウル・クレー、ラバンとともに参加していた事実には注目する。