当初は、惣領家に先行して土着し、在地領主としての覇権を握っていた庶流三家(田島、門川、木脇)に押される形勢であったが、惣領家が次第にその本領を発揮して庶流を呑み込み、遂に日向伊東家中興の祖、十代祐堯(すけたか)が山東の完全制覇を成し遂げた。
山東を平定した伊東氏は、宿敵島津氏の領する飫肥(おび)院侵攻へと向かい長い紛争状態を経て、祐堯の曽孫義祐(よしすけ)が永禄十一年(一五六八)悲願の飫肥攻略を成し遂げた。
四国から阿喜多(おきた)が入輿(じゅよ)したのは、その日向伊東家隆盛期である。
伊東本家十六代(日向伊東家十一代)当主伊東義祐は、元は諱(いみな)を祐清(すけすみ)と言い二十五で家督を継いだが、当時は日向国南部を巡る島津氏との抗争の直中(ただなか)にあった。
義祐は足利将軍家に接近し、将軍義晴より偏諱(へんき)を受けて名を祐清から義祐と改め、また、位階も従三位(じゅさんみ)という高位に叙(じょ)せられ、大膳太夫(だいぜんだいふ)の官職に任ぜられたが、これらを獲得するにあたっては将軍家への多額の上納が必要であった。
当時、既に将軍の権威は衰え、金品を伴う要請があれば比較的容易に偏諱が受けられ、叙位し、官職が与えられる時代ではあったが、それらの肩書きは地方大名にとっては、地元の他の勢力に自らの優位性を誇示し箔をつける効果を依然として保っていた。
二十七年もの歳月を経て、漸(ようや)く自分の代で飫肥攻略を成し、伊東四十八城を誇る全盛期を迎えた義祐だが、その飫肥城をまだ幼い三男祐兵(すけたけ)に譲り、当主の座と都於郡城を次男祐益(すけます)に託し、自身は佐土原(さどわら)に住んだ。
試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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