しかし大本営は、転換点ともなるこの海域の戦いに破れても、この「撤退」を「転進」と発表し、決して「敗北」とは発表しなかった。

悲劇は積木のように積み重ねられていたのであった。新聞報道の戦況報告にも“散華”“玉砕”という言葉がしきりに踊るようになってきた。

昭和十八年四月十八日、戦況の深刻さを象徴するような重大な報告が俊介のもとにも入って来た。

「連合艦隊司令長官、海軍大将山本五十六は、ラバウル東飛行場を午前六時に発ちブーゲンビル島南方のバラレ島に向かう作戦指導中、敵と交戦。飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり」

情報局は衝撃と影響の大きさに、国民にはこの戦死発表を一ヶ月以上伏せて、五月二十一日に大本営発表とした。

連合艦隊の象徴山本五十六の死は、日本国民は勿論の事、統帥部にとってもはかり知れない衝撃となって駆け抜けた。

戦争指導者達も、太平洋戦争は全戦局で深刻な局面を迎えつつあり、守勢必至の状況に追い込まれたと、痛切に認識せざるを得なかった。

現地海軍司令部ラバウルからの情報資料によれば、

『四月十八日午前六時、山本五十六大将は、連合艦隊参謀長宇垣纏等と共に二機の一式陸攻機に分乗。零戦六機に護衛されラバウル東飛行場を発った。

バラレ島の手前ブーゲンビル島上空にさしかかった時、山本の乗った一番機と宇垣の乗った二番機に、突然十六機のロッキードP38が右前方上空から襲来。

護衛の零戦が応戦する間もなく、一番機は頭上から攻撃され被弾。黒煙に包まれジャングルへ墜落。

宇垣の二番機も同様に被弾しモイラー岬沖の海中へ墜落』とあった。

俊介は“護衛の零戦六機が応戦する間もなく”という報告の下りに、目を見開いたまま身震いして、何とも言い難い恐怖に襲われたのである。