【前回記事を読む】「いよいよ出征か」と震えながら封筒を開いたのに…読み始めるや、夫婦は小踊りしながら喜んだ。書かれていたのは…
三 日米開戦
昭和十六年十二月八日未明、日米開戦の火蓋は切って落とされた。
周知の通り集団的波状攻撃で、米太平洋艦隊の基地オハフ島を先制奇襲し、陸軍の南方作戦とも連動して目論見通りの成功を収めた。
大打撃を受けた米国であったが、これが開戦当初であった事。
真珠湾の敗北をよく分析反省し、リメンバーパールハーバーを合言葉に国力の底力を見せて整備した米軍。
勝利に溺れて反省しなかった日本。
開戦から僅か半年後の十七年六月の事。
中部太平洋のミッドウェー海戦で、連合艦隊は不覚にも米機動部隊に完敗。優秀な将兵三千人を一挙に失ってしまう大損害をこうむってしまったのだ。
その損失は致命的といえる程大きかった。何故なら以後、中部太平洋での海戦では、日本軍は勝利する事はおろか、制海権迄も握られ戦局の主導権をとり戻す事は二度となかったからだ。
果てしない消耗戦にただただ死闘を求められるばかりで、悲しいかな戦力差は次第に開く一方であった。
十七年八月南太平洋のソロモン諸島の攻防から始まった第一次、第二次ソロモン海戦。
そしてガダルカナルの攻防は、最終的には敗北。
米軍との陸上攻防戦も海上での決戦でも完膚なき迄に叩かれ、昭和十八年二月撤退を余儀なくされてしまったのだ。
開戦からガダルカナル島の戦い迄、海軍飛行教官として戦況報告を冷徹に分析していた俊介は、
「劣勢がここ迄顕著になってくるとは…。とんでもない事になりつつある。ほんとに恐ろしい事が、現実になりつつある。制海権も制空権も連合軍に握られ、あらゆる補給が断たれてしまっては、反撃して勝利を収めるどころか、全滅に追い込まれてしまうだろう。自分にもいずれ壮烈な戦死が待ち受けている事は、火を見るよりも明らかだ」
俊介がそういう覚悟をせざるを得ない展開に、戦局はなりつつあったのだ。