小児科研修医時代 1985年4月〜1987年3月

小児神経6 小児科の基本を学ぶ

医学部の卒業の年、小児科教授の東音高(ひがしおとたか)先生に会い、卒後の進路を相談した。

障害児医療を専門とする小児神経科医になりたいので、県外の適切な研修施設を紹介して欲しいと、率直な思いを伝えた。

当時、小児神経科医になる最短の道は、小児科全般の研修を2年で終え、すぐに小児神経の専門施設で学ぶことだった。

東先生からは、「どこに行っても、まずは小児科の勉強をしなければいけない。秋田に残って、2年間しっかり小児科の勉強をすれば、3年目には県外の専門施設に勉強に出すから、是非、秋田に残って頑張って欲しい」と言われた。

私が医学部を卒業した1985年頃、秋田県の小児科医師は今よりはるかに少なく、多忙を極めていた。2年間で小児科の研修を終えることさえできるなら、少しでも秋田県の役に立てる方が良い。

もし、3年目に研修に出してもらえなかったら、医局を辞めて好きなところへ行くだけのこと。そう思い、私は秋田大学医学部小児科へ入局することにした。

医師国家試験が終わって1週間後、合格発表前から大学病院での見習いが始まった。

4月に合格発表があり、正式に医師となったが、仕事は指導医の下で行う処置や事務的仕事が多かった。研修が始まったばかりなのだから仕方がないと思いつつ、一般病院で研修を始めた同期生が、どんどん責任ある仕事をしていることを知り、私は焦りを感じた。

自分が小児科を勉強する時間は2年しかない。他の小児科医が3年や4年で学ぶ内容を2年で修得し、小児神経の道へ進まねばならない。

そんな中、7月から研修医の誰かが横手市の平鹿(ひらか)総合病院に派遣されることになった。

当時の平鹿総合病院小児科は非常に忙しく科長も厳しいことで有名だった。研修医6名のうち誰を派遣するか問題になった。一番人当たりの良い研修医に決まりかけたが、私は自分に行かせて欲しいと手を挙げた。

医局長からは、「君は融通が利かないからあの科長とは合わない」と言われた。しかし、「絶対にやり遂げます」と懇願した。

念願かない7月から平鹿総合病院小児科で働くことになった。医師は働き盛りの科長と研修1年目の自分と2人だけ。しばらく小児神経のことは忘れ、小児科の基本を徹底的に学ぼうと思った。

指導医が厳しければ厳しいほど、ここに来た意義がある。それに、どんな厳しさにも負けない方法を考えていた。

それは、何があっても、科長の先生より早く病院に行き、遅く病院を去ることだった。

――秋田魁新報 2012年12月25日掲載