「否、四国攻めの支度はまだ整うておらぬはず。急ぎの指図とて夜明けまで待てぬほどのものは無いかと存じまする」

物見からの第二報が届いた。

「南へ下った者共は、山崎より西国(さいごく)へ向かう道をとっていると知らせておりまする」

西国街道を西に進むということは、行く先は大坂ではない。ここでぐずぐずしていると夜が明け始める。時間を気にし出した光秀は、

「わずか数騎で出向かれる所を考えれば、伊丹しかないのう、利三」

「左様、信長様が軍勢を引き連れずに安心できるとなれば、御譜代の池田様で御座いまするが。何故この様な出立(しゅったつ)をなされるのか合点がゆきませぬ」

利三の勘では、信長がまだ本能寺に居る様に思える。しかし彼は主人光秀が理詰めで物事を考える性格であることも承知している。

「此度の毛利攻めは、織田家にとって天下布武(ふぶ)の切所(せっしょ)に御座いまする」

羽柴秀吉の中国攻撃軍三万に対し、毛利軍が三万五千の兵を備中に集結させ対峙している。信長はこの機を逃さず畿内から集めた六万の兵を加え、毛利の殲滅(せんめつ)作戦を仕掛けようとしている。

大軍を催して力押しに敵を潰す方法が、今まで信長のとってきた正攻法である。それならば、兵の結集を都で待ってから出陣するのが最もありそうなことであると説いた。

「むー」

本来の聡明さを持つ光秀なら、この当然の道理を受入れたであろうし、彼自身が考えついたはずであった。

だがこの時期光秀は完全に自分を見失っていた。武田攻めの折の上諏訪法花寺(ほうけじ)で信長から受けた打擲(ちょうちゃく)、徳川家康饗応役の罷免、領地丹波、近江の召上げと、立て続けに受けた屈辱感が、彼を被害妄想の患者に仕立て上げてしまった。

「そうかっ。信長は摂津の兵を引き連れ、我等より先に備中に向かう所存じゃ」

 

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