【前回の記事を読む】「美しく清らかな素肌を、その身で味わう快楽…女を我が物にすることこそ、男の務めだぞ?」女の亡霊に淫らな言葉でたたみかけられ…

指切り宗佐 愛恋譚

七 試練

その汗がやがて冷たい雫となってこめかみを伝った時、亡霊が突然不審な声を上げました。

「おや? これは何か?」

宗佐は、はっと我に返りました。

「奇態なものが、宙空に浮かんでいる」そう言いながら、骸骨のような冷たく硬い手が自らの左手の小指を掴み持ち上げるのを、宗佐は感じました。さっきまで額ににじんでいた汗が、一瞬にして引きました。

「はてこれは、人の指ではないか?」驚いた様子で、亡霊は独り言を言っています。

一瞬生じた心の惑いによって、おのれの周囲に張り巡らされた結界が小指の先から破れ始めていることを覚ると、彼は思わず息をのみ、身を硬くしました。しばらくの沈黙の後、深い怨念のこもった声で亡霊が言いました。

「……宗佐よ、お前は姫様を裏切ろうと言うのだな。かほど懸命に我々が呼び掛けようとも、応えるつもりはないと言うのだな。……仕方なかろう。……かくなる上は、もはやこうするよりほかあるまい」

衣擦れの音とともに、何かがかすかにこすれるような音がしました。その時は分からなかったのですが、後で思い返すとそれは、亡霊が懐から短刀を取り出し、鞘を払う音でした。

握られた小指がきつく掴まれ、「む」という底力のこもった掛け声が聞こえた瞬間、宗佐は小指の根元から全身に凄まじい痛みが走るのを覚えました。

宗佐は思わず身をのけぞらせ、声を上げそうになりましたが、そこで渾身の力を奮い起こしておのれを取り戻し、禅の姿勢を失うまいと全霊を込めました。

気が遠くなるほどの激しい痛みの中で、命が危殆に瀕する間際で、取り乱すことなく彼に禅定を結び続けさせたものが何だったのか……。

彼の奥深くにひそんでいた自らの生への意志だったのか、姫の魂の幸いを願う彼の真情だったのか、あるいは姫の魂と彼の命の双方を共に救おうとするみ仏の計り知れぬ慈悲の力だったのか、確かな答えを見出すことは誰にもできなかったでしょう。

「ああ、何ということか。……宗佐がかほど冷酷な男だったとは、かほど情けない男だったとは、彼奴の愛がかほど浮薄なものだったとは、思わなんだ。姫様のお嘆き、悲しみがいかばかりかと思うと、いたたまれぬ気持ちじゃ。……しかし今となっては、この指を宗佐の形見として姫様のもとに持ち帰るほかはない……」

深い怨みと悲しみのこもった独り言を引きずりながら、亡霊の足音は裏の墓地の方へと遠ざかって行きました。

* * *

血糊に染まった縁側にうつ伏せに倒れている宗佐のもとに拓善が駆け込んで来たのは、薄青い光の中、周囲の木立の間に野鳥のさえずりが響き始めた明け方近くのことでした。

「おお宗佐、無事であったか」駆け寄った拓善は、宗佐に息があることと傷の場所を確かめると、直ちに俊開に手当てを命じました。指に応急の手当てを受けた宗佐は血に染まった着物を替えられ、寝床に寝かされました。

「よくぞ耐えた。さぞやつらかったであろうが、しかし失ったのが指ばかりで済んだのは、まだ幸いな方だったかも知れぬ。法要が始まるまで、しばらく休んでおれ」意識を失っている宗佐に、拓善が優しいいたわりの言葉をかけました。

境内に日が差し始めた頃、血の滴りの後をたどった拓善が見出したのは、沙代里姫の墓前に供えられている宗佐の血まみれの小指でした。