【前回の記事を読む】戸籍を調べると、同じ名前の人物が何度も現れる。「改名」では説明できない一族の異様な記録、その理由は…
第2章 知られざる2人
2・B 末治
一族について
/参男 末治 明治三十九年三月三日生/参女 ツキ 明治四〇年一月四日生 昭和四年四月六日 石川県江沼郡福田村 幸田佐一と婚姻 死亡
/四男 三吾 明治四二年十二月十二日/五男 多志喜 大正二年四月一日生 まもなく死亡/四女 幸 大正五年七月七日生/
三男 末治は当時近くに住んでいた佐藤藤右エ門方の実子で、どういう関係からか入籍になっており、長女 ヤヘ、五男 多志喜は生まれて間もなく死亡。
現在は弟三吾と妹幸の二人のみである。三吾氏は幼少よりバイオリンが天才的名手で、NHK交響楽団員としてその才能を発揮しておった、東京都神宮前に居住している。その子息が数年前写真大学に在学中とか来村されたが、その後のことはわからない。/
妹幸は、著者が東京におったとき、小樽から洋裁を習いにきておった。多喜二に似た面長なスタイルのよい娘さんとして印象深かったが、最近頂いた写真では、かなり中年太りの婆さんになっている。六二才なはず。/
母セキは、東京におったときたびたびあって、川口のときの思い出をいろいろと話しをしてなつかしんでいた。畑から野菜ものをとり入れて、夜なべに整理して、翌朝暗いうちに家を出て、夜の明け方長瀞の鉄橋を渡るのが一番こわかったと言っていた。見通しがきかないカーブだから、汽車が来るのがこわかったのでしょう。/
釈迦内のことは、もうほとんど記憶にないが、川口のことは大変なつかしんでいた。/あるとき、上野方面から神田の春日町方面の市電に遇然〈原文のまま〉いっしょに乗りあわせたことがあった。
私が声をかけても、最初ピンとこなかったらしい。ちょっと経ってから、「三郎右エ門(私の家のこと)のアンサマだけしかー」と。秋田弁まるだして言ったことも、今はなつかしい思い出となってしまった。
老年になってからは、夏は小樽のチマのところに、冬は東京の三吾のところに、そして死亡する二・三年前途中下車して私のところにも立ち寄ったそうだが、あえなかったのが残念である。/
彼の姉チマは、小樽駅の一つ手前の朝里駅を下車するとすぐ左のダラダラ坂を登ってゆくとすぐ右側の新しいりっぱな家であった。
夫藤吉との間には、子どもに恵まれず、夫の弟に嫁をむかえ、相続させている。大型のトラックに雑貨品を積んで、在の方に行商していた。
前に行ったときは、朝里駅の近くに住んでいて、豆腐屋だったと思っている。あとで海の見える高台に住んでいて、多喜二や夫藤吉、母セキなどの写真をいっぱい張って〈原文のまま〉ある、一人部屋に居った多喜二の遺品もたくさんあった。
手紙などは来るとすぐ焼いて、埋めてしまったが、今残しておいたらどんなに助かったろうにと話していた。心臓病とかでしたが、案内していただき旭ヶ丘で写真を撮ったのが最後でした。/
戸籍上の参男末治は、大館市内に住んでいて今も健在でいる。/
また、彼の親戚の工博鳥潟右一の三男で農博の名古屋大学教授の博高氏は、鳥潟右一博士伝の序文に「健康に恵まれたかった(「なかった」の誤植と思われる)が鬼才と言われたその才能を充分に発揮し数多くの栄誉にかがやいた発明家鳥潟右一とプロレタリア文学のホープと言われ蟹工船の名誉をあらわし、幾多の春秋を残しながらその主義主張は入れられず警察の拷問で命を落した小林多喜二は、くしくも血縁でつながっている。/
右一の母イクは、下川沿村川口(現在大館市)の小林多治右衛門の二女である。多喜二はその小林家の分家の子である。」と。/
なお、右一博士の四男の博敏氏は三菱レーヨン取締役で理学博士である。