社会主義革命がまだ現実性があるなか、シベリアで受けた三重苦(飢餓・重労働・酷寒)と洗脳教育の悲惨さを伝え、暴力革命への警鐘を鳴らしたい、という意図が父にはあった。

出版当時はまだ、革命を目指す学生運動が盛んに行われていた。しかし、父が許さないとしたソ連も、100年と持たず歴史上から消え、日本でも暴力革命家はほとんどみあたらない。

戦後80年もたつと戦争体験を直に語れる人はわずかで、文字や映像に残された記録も、時代が変わりすぎて伝わりにくい。ネット上の百科事典や、AIが全て正しく歴史を伝えてくれる訳でもない。

『シベリア日記』を参考に、令和の日本とモンゴルを考えてみたい。

第1章 終戦後から始まったもうひとつの戦い

多くの日本人が、無謀な戦いと思っていたにもかかわらず、日米開戦となった。

昭和16年(1941年)8月、総力戦研究所が首相官邸で研究結果を発表した。前年開設された総理大臣直轄の研究所で、軍事・経済・外交のデータを分析し、日米戦争の展開を予測した。

「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担は日本には耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を出した。研究発表会閉会にあたって陸相東条英機は、以下のように述べたそうだ。

「実際の戦争は君たちの考えているようなものではない。日露戦争で勝てるとは思っていなかったが勝った。列強の三国干渉で已むに已まれず立ち上がったのであり、勝てる戦争だからと思ってやったのではない。机上演習の結果を軽はずみに口外してはならない…」

戦前、父が農林省に勤務していた時代の下宿での論議も、必敗だった。