【前回の記事を読む】サトウはキリスト教禁令について、三条実美や岩倉具視らと討論したが効果はなく、長崎浦上村の信徒約4,000人は「処分」された
第一章──新生明治
明治2年2月24日以後の日本をめぐる歴史を振り返ってみよう。菊池寛著『大衆明治史(国民版)』(いざなみ文庫)を参照にした。以下年代別に重要事項を列記する。
廃藩置県と地租改正
明治維新における政治面での最大の変革といえるのは明治4年の廃藩置県と明治6年の地租(ちそ)改正であろう。廃藩置県によって旧領主を一掃した新政府にとっては、土地の私的所有権を認めて地価を定め、その3パーセントを地租として納付することを決めた。
天候に左右される米という現物ではなく、地租という土地からの税金を徴収することは、安定的で確実な財源を確保することになった。
明治28年、サトウ公使日記
十月七日、伊藤のところへ話に行った時の日記にはこうある。
――彼は昔の話をした。それは明治元年に大阪で、大名に各地の領地の引き渡しを求めるという彼の考え(この時、伊藤は大阪の権令に指名されたと聞きサトウは驚いたとある。この時、伊藤は長州藩の下級武士)を私に話し、私が大名を英国の貴族と同じような地位におくことを勧めた話であった。
しかし、もし大名に領地を持たせておけば、家来たちもそのまま維持されて、藩民意識が決して消えないだろうということが、彼には分かっていたのだ。木戸はミカドに石州と小倉の土地を献納するという提案をし、薩摩の連中がミカドに十万石の土地を贈ることを望んでいた。木戸は神戸で私に会いに来て、大名は領地をすべて引き渡さなければならないと言った。
これは木戸にとって危険な提案のように見えたが、彼は京都で大久保利通[注1]と西郷隆盛[注2]に相談し、長州に戻って藩主にこの案を話した。
藩主はミカドにすべてお返しすることは大変望ましいことだ。それは私の長い間の念願であるから、決して犠牲が大きすぎることはない。しかしこれは大変危険なことだから、慎重に事を運ぶようにせよと答えた。そこで彼らはこの件については何も言わずに、しばらく保留していたが、明治四年に薩摩、土佐、肥前の四大名が『改革』の先頭にたち、諸大名がこれに続いた。