岩倉具視一行の欧米視察

岩倉具視が米欧など12の国で行った視察は、明治4年11月12日から明治6年9月13日まで及んだ。全権大使・岩倉具視、副使・参議木戸孝允、参議大久保利通、以下、伊藤博文など随員四十名ほか、留学生を含めた全員107名で構成された大視察団だった。7~9世紀に派遣された遣唐使以来の出来事であった。使命は欧米視察と条約改正である。

この発議者は大隈重信で、教育顧問の宣教師グイド・フルベッキの後押しがあった。

台湾征討

明治4年、当時琉球王国に属していた宮古島貢納船が、台湾の北部に漂着し54名が先住民「生蕃」に殺害された。

清朝は、琉球は中国の属国だから被害者は日本人でないと主張したが、明治政府は琉球帰属問題とすり替え、大久保利道は征韓論を排撃して2年も経たぬ明治7年5月、陸軍中将・西郷従道[注3]の指揮のもと、軍艦六隻に3600名の台湾遠征軍を派遣し、「生蕃」の首長を殺害した。しかし、日本の遠征軍もマラリア、赤痢などで、500人以上病死するという事態となった。

清国は近代装備の海軍が未完成のために、開戦に踏み切れなかった。多大な兵士の損失とマラリア罹患兵が帰還したが、鹿児島西洋病院の院長、ウイリアム・ウイリスが保持していたキニーネのおかげで、帰還兵は一名の死者も出さず治癒した。

戦後の談判には、自ら北京にのり込んだ大久保利道は、北京駐在の英国公使ウエードの仲介があり妥協が成立、清国は日本の出兵を「義挙」と認め、償金五十万両支払うこととなった。その本質は、これから続いた日本の対外膨張路線の始まりでもあった。