はじめに
本書は1843年ロンドンに生まれた英国の外交官、日本研究者のアーネスト・メイソン・サトウについてその功績をまとめ、時代背景を記したものである。
アーネスト・メイソン・サトウは、ロンドンにあるユニバーシティー・カレッジ卒業後、18歳で外務省に入り、文久2年9月から日本の英国公使館の通訳官、そして、その後多大な功績が認められ外務官となり、明治2年2月に賜暇で帰国する。
その後、シャム駐箚総領事、同弁理公使、ウルグアイ駐箚公使、モロッコ駐箚特命全権公使を経て、再び明治28年に日本駐箚特命全権公使を命ぜられた。
初代サー・ラザフォード・オールコック駐日総領事(後に公使)から数えると六代目の日本公使となり、同年7月28日(日)、横浜港で多くの在留英国人に歓迎されながら着任した。
その前年の明治27年7月には、新しい日英通商条約が調印されており、サトウが着任した時は、日清戦争が始まった明治27年7月25日の丁度一年後であった。
その後、終戦処理の下関(談判)条約(明治28年3月15日)、そしてその和議は同年4月17日に調印されていた。
しかし、一週間も経たずに露独仏の三国干渉が起こり、日本国中、まだ興奮の坩堝が冷めやらぬ時でもあった。
サトウ公使が就任前の新生明治では、八重山艦のセイリーズ号臨検問題、
英領植民地の改正条約加入問題、閔妃(ミンピ)暗殺事件、
朝鮮における日・清・露両国の勢力争い、台湾での英国商社との権利保護問題、
横浜居留地で起きたカリュー氏毒殺事件、日本の金本位制の採用をめぐる問題、
ドイツの膠州湾占領とロシアの旅順占領、日本の改正条約の実施等々、
いろいろ困難な問題が次から次へと起きていた。
日本に着任したその後の英国公使としての立場を利用して、日本政府へのアドヴァイスや日本に対する忠告は、東アジアのトップを目指していた新生日本の首相や官僚にとって有り難く、貴重な存在であったと思う。