また、『アーネスト・サトウ公使日記1、2』(長岡祥三訳、新人物往来社)には、次のように記されていたことをメモとして残してある。

サトウ公使は日本政府高官との協議、当時の皇族、政治家、実業家、はじめて日本を訪問した人たちの接待、在留英国人(留地商人、宣教師、お雇い外国人)との交遊、そして、余暇を利用して日光中禅寺湖畔に別荘を建て、はるばる日本を訪問してきた友人たちを招待し、ヨット遊び、近くの山々を散策、高原に咲いている山野草を愛でた。豊富な山野草の知識には驚かされる。

サトウの家は東京九段富士見町にあった。

妻は10歳年下(武田兼)、二人の息子(栄太郎、久吉)がおり、当時郊外であった高田馬場近くで週末には息子たちと食事をし、近くにあった植物園を訪ね、変わった竹を自宅に植えたり、昔同僚の書記官で、同じ趣味を持つアルジャーノン・ミットフォード(後のリーズディル卿)に贈ったりしている。

そのほか横浜にあった競馬場で馬主となり、競馬を楽しんだ。

5年間の日本駐箚特命全権公使勤務の末、明治33年5月4日、礼砲に送られ、エンプレス・オヴ・インディア号で横浜を去り清国へ。

明治39年まで清国駐箚特命公使に栄転し、義和団の乱の後始末を、そして中国で日露戦争を見届けた。北京から英国への帰国の途上一か月、日本に立ち寄り家族と再会している。

帰国した後は叙勲され、サーの称号を得て、外交官生活を引退。

その後、枢密顧問官やハーグの国際仲裁裁判所・英国代表委員を務めた。晩年はデヴォンシャーのオタリー・セント・メリーに隠棲。

そこには、日本人の側用人で従者だった〝さぶろう〟がおり、昭和4年に86歳で永眠したことをたどたどしい日本語の手紙を妻だった武田兼に送った。妻も朝日新聞が報じたサトウの死を日本で知っていたと思われる。