本書は私のこれまでの研究の集大成であり、伝え聞いたもの、文献を調べてメモから記したものもあります。

いくつかの文献を調査したものに対して自身の見解を述べているところ、注釈を加えたところがありますが決して著作物を侵害するものではありません。

また、西暦と和暦は、読者が読みやすいように、『サトウ公使日記』以外はなるべく和暦で統一してあります。

前章

キリスト教解禁、耶蘇教禁令について

大政奉還があった慶應3年10月14日の9月、サトウが長崎訪問中、浦上村で多数のキリスト教教徒が逮捕されたと薩摩藩家老、新納(にいろ)刑部が教えてくれた。

日本ではキリスト教については、魔法か妖術の類との思いが強く、禁制の擁護となっていた。

その後、慶應4年5月18日、この問題について、後藤象二郎[注1]と伊達宗城(伊予国藩主)が横浜のハリー卿(英国公使ハリー・パークス)を訪ねてきた。

伊達は耶蘇教(邪悪な、有害な宗派)という用語に難点があることを認め、大阪や兵庫の制札には出さぬようにする。

しかし、耶蘇教の禁制条項をすべて除くということは不可能であろうと話した。


[注1] 後藤象二郎(ごとうしょうじろう)

土佐藩家老、山内豊信に登用され、藩政の実験をにぎる。坂本龍馬の公儀政体論に賛同し、徳川慶喜に大成奉還を説いた。明治6年征韓論問題で参議を辞任。板垣退助らと民撰議院設立建白書提出。自由党の結成に加わり、明治20年に大同団結運動を展開。明治22年黒田内閣の逓信相となる。その後第一次山縣、第一次松方各内閣に留任。第二次伊藤内閣では農商務相に就任。

 

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