【前回の記事を読む】台所でお菓子を食べていると、ビニールのよだれかけを首に巻いた見知らぬ男性がぬっと現われ、「お便所はどこ?」と聞いてきて……
第三章 三十八年ごろ
第一部 美容院の仕事
祖母も食事の用意をしてくれる。子ども向けのメニューも作ってくれる。子どもたちに何が食べたいと聞いた時、兄弟で意見が分かれて、カレーと言うものとハヤシと言うものがいた。母の料理の番ならかならず、
「どっちかにしなさい」
と、言われるにきまっているが、祖母は両方作ってくれたことがある。僕たちは大喜びで、カレーを注文したのに、ハヤシも食べることができた。一度に二度おいしかった。
でも老人に苦労をかけるのは申し訳ないから、あまりわがままを言わないことにしている。母にわがままはきかないから、うちの兄弟ではわがままは禁句。でもしょっちゅうお構いなく、言っているが。
母には女の兄弟が多く、近所に住んでいるので遊びに来る。母はこれ幸いとばかりに家事を手伝わせる。
一番下の妹が来たとき、お昼の用意にお米をかして(お米をといで)くれたけれど、つらそうに米をかしていた。僕の顔を見て、
「マコちゃん、お母さんの仕事、大仕事だがね。ご飯のたびに十合たくんでしょう。うちの三倍だがね」と、おどろいていた。
家族五人と祖母、お姉ちゃんたち二人なら、そういうもののようだ。ふつうの日は子どもは給食があるから、もう少し少ないと思うけど。
話はちょっとそれるが、母にはわがままがきかないだけでなく、犯罪の片棒を担がされることがある。
三年生になった時のことだと思う。絵具と絵具を入れる道具箱を買ってもらうために名古屋の松坂屋に行った。僕のわがままではなく、学校でいるようになったからだ。
母は松坂屋の美容院で見習いをやっていたので、松坂屋は気心が知れているのでよく行く。
絵具と道具箱が決まると、箱の中に絵具一式を入れて母はレジに出した。レジのお姉さんは箱の定価を見て「××円ですね」と言った。
僕はお姉さんが不注意なので、「中に入っているよ」と箱のふたを開けて絵具の一式を見せた。お姉さんは「あっ」と気が付いた。しかし母にひじでどつかれた(たたかれた)。
誠実な少年を犯罪に導こうとする母親。
母の言い分は、気が付かないのは気が付かない方が悪いんだから、だまっとりなさい、と言うもの。どこまで本気かわからない。見習い期間中にいやな目にあって、松坂屋にうらみでもあるのだろうか。
ついでに母は、松坂屋の売り場のどこに美人が配属され、どこにそうでない女性が配属されるかまで、僕に教えた。どう教えたかは社会的えいきょうがあるので秘密。