「雅彦さん」

振り返った雅彦に、よし子は深く頭を下げた。

「ごめんなさい。私、舞い上がってた。あなたの気持ちを、ちゃんと見ていなかった」

雅彦は、筆を置いた。長い沈黙のあと、ぽつりと言った。

「……すまなかったのは、俺の方だ」

雅彦の声は、少しかすれていた。

「君がテレビに映って、輝いていて……。俺は嬉しかったんだ。本当だ。なのに同時に、怖かった。君がどんどん遠くへ行く気がして。俺だけが、後ろに取り残されるみたいで。……いい歳をして、情けない男だよ」

「情けなくなんか、ない」

よし子は首を振った。

「私こそ、あなたに見ていてほしくて、はしゃいでいたの。誰かに必要とされるのが、嬉しくて。でも本当は、あなた一人に見ていてもらえれば、それでよかったのに」

雅彦が、帳場の奥から包みを取り出した。風呂敷をほどくと、やわらかな藤色の着物が現れた。

「サプライズのつもりだったんだ。……すっかり、格好がつかなくなったがな」

よし子は、その藤色を抱きしめて泣いた。仕立てたばかりの布から、ほのかに、新しい絹の匂いがした。

そういえば、と節子が言っていた。

あの水城というディレクターも、小さい頃に母親を亡くしているのだという。「48歳から人生をやり直した」というよし子の話に、自分の母の姿を、重ねていたのだと。

(みんな、それぞれの想いを抱えて、この旅館に集まってくれていたんだ)

その夜、二人は裏手の露天風呂に入った。すべてが始まった、あの場所だった。

湯けむりの向こうに、月が浮かんでいる。丸い、優しい月だった。

「もう、置いていかないでくれ」

雅彦が、湯の中でよし子の手を取った。