【前回記事を読む】「今日温泉街にいたでしょ。女の人と。」と切り出すと、夫は「…仕事の相手」。背筋がすっと冷えた。前も同じ言葉を…
湯けむり宿の女将と、嫉妬のさざ波
湯けむりの向こうの、本当の言葉
翌朝、よし子が客室から出ると、廊下で節子が待っていた。
よし子は、昨日のことを思い出した。
「節子さん。昨日は……ごめんなさい。『節子さんには、分からないかもしれませんけど』だなんて、ひどいことを言いました。節子さんは、誰よりこの旅館を、思ってくださっているのに」
よし子が深く頭を下げると、節子はふっと笑った。
「いいのよ。女将がこの旅館のために必死なのは、ちゃんと分かってる。……ただね、私はあなたのことが、心配だっただけ」
そして節子は、声をやわらげて言った。
「昨日、温泉街で旦那さんが会ってた女の人ね。あれ、『松扇堂』さんの、呉服屋の女将さんよ」
「呉服屋……?」
「旦那さん、あなたに内緒で着物をあつらえてもらってたの。女将のあなたに、一番いい着物を着せてやりたいって。半年も前から、準備してたのよ。色は、あなたに似合う藤色がいいって、それは熱心に選んでたそうよ」
よし子は、その場に立ち尽くした。
(半年も前から。テレビの話が来るより、ずっと前から……)
「旦那さんはね、口下手なだけ。あなたが眩しくて、誇らしくて、でも、それをうまく言葉にできなかっただけなのよ」
よし子の目から、涙がこぼれた。
(私は、何をしていたんだろう。誰かに見てもらえることが嬉しくて、はしゃいで。一番見ていてほしい人の気持ちを、置き去りにして)
この1か月の自分を、よし子は思い返した。台本のメモばかり気にして、雅彦の「おはよう」に、ろくに顔も上げなかった日。お出迎えの撮影で下がった雅彦の背中を、一度も振り返らなかった日。誰かに見つめられることに夢中で、いちばん近くにいる人を、ちゃんと見ていなかった。
よし子は帳場へ走った。雅彦が、一人で宿帳を広げていた。
