【前回記事を読む】妻子持ちの彼と「あってはならない関係」に…。弱った私の中にするりと入りこんできて、まるでスポンジのように……
第Ⅰ部 幼い日の痛みと揺れる青春
第3章 母になることと、息子の選んだ場所
息子の沈黙、不登校という選択
小学校五年生になる頃、息子は「学校に行きたくない」と言った。
「行きたくない」
「行かんでいいよ」
そのやりとりは、思えばとても短かった。そこに正解があったのかどうかは、いまでも分からない。
先生は、毎日のように家に来た。ドアを開けると、きちんとアイロンのかかったシャツとネクタイ姿の先生が、申し訳なさそうな笑顔を浮かべて立っている。
「学校に行きましょう」
「お帰りください」
その押し問答が何度も続いた。
「朝、ご飯を食べていないのだから行かせません」
私ははっきりそう言った。
先生は、靴音を鳴らして帰っていった。
私は息子に言った。
「好きなことをしなさい」
息子は、お菓子作りに夢中になっていった。小麦粉の袋、砂糖、バター、卵。キッチンの狭い流し台に、ボウルと泡立て器と、レシピ本が並ぶようになった。オーブンから漂う甘い匂いが、家の中の空気を少しだけ柔らかくしてくれた。
バターの値段がじわじわと家計を圧迫していくのを感じながらも、膨らみかけのスポンジケーキを見ると「まあ、いっか」と思えた。
プロのケーキを食べ慣れているわけではない。それでも、息子のつくるお菓子を一口食べるたびに、「これはプロみたいだ」と、心の底から思った。親バカと笑われてもいい。親にしか見えない輝きというものが、世の中には確かに存在する。
太郎という家族
息子が小学生の頃、「一人っ子は寂しいけん、犬が飼いたい」と言い出した。私は断然猫派だったし、「誰が散歩に行くん?」と、最初は大反対だった。
それでも結局、家族でペットショップへ行くことになった。息子は「柴犬がいい」と言っていたが、店のケージの前で、ある一匹の犬と目が合った。
白に近い毛並みのポメラニアン。顔が圧倒的に可愛い。笑っているように見える。
「この子にする!」
気づいたら、私が決めていた。
名前は太郎。太郎はすぐに、近所の人気者になった。散歩に行くたびに、小中学生たちが「ヤバい! 可愛すぎる!」と叫び、太郎を待ち構えている子どもまでいた。
その頃は、太郎よりも私が得意げだったと思う。リードを持ちながら、「うちの子、可愛いでしょう」と心の中で自慢していた。