【前回記事を読む】雨でずぶ濡れの女を家に上げた。脱衣所に散乱した下着を見て、パンティーを出してやるのを忘れたことに気づき…

第一章 見知らぬ人のままで

すぐそばに市村の耳があることも落ち着かず、薔子は体の向きを変え、ひそめた声で拒んだ。

――このところゆっくり会ってもいないじゃないか。一人でいるならちょうどいい、話をしたいんだ。

須賀が絶好のチャンスと思っているのがありありと判って、薔子はとっさに、

「一人じゃなくてよ、兄たちと来ているわ」

――嘘つけ!

大きな声で、そばの市村にも聞こえたにちがいない。

「切るわ。東京に帰ってから電話します」

薔子は受話器を置いてしまった。本当に須賀にやって来られでもしたら、困ると思った。一晩中玄関を開けずに追い返す自信もないし、入れたら入れたでどういうことになるか。

難問を抱え込んでリビングを出ようとすると、追いかけるようにまた電話が鳴った。固定電話で移動しての受信ができない。

四度鳴らして、仕方なく取ると、耳に持っていくより早く、

――薔(しょう)ちゃん、俺、行くからな。

須賀の声が受話器からこぼれた。いつもの冗談めかした調子とは違った。

須賀の強引よりも彼の必死に薔子はたじろがされた。そばの耳と、電話の相手への感情で、邪険に振り払う言葉も出せないで、ウエストのあたりで握り締めたままの受話器を、市村が椅子から取り上げた。

「もしもし」

男の声に、須賀が慌てて掛けた先を確かめたらしく、市村は、「そうです、立木です」と落ちつき払って答えた。

須賀が薔子に代わるよう言ったのかどうか、ハンカチを巻いた手が受話器を返してきた。市村のやり方に意表をつかれて、一瞬遅れて薔子が受話器を耳に当てたときには、電話は切れていた。

向こうのソファーから、耀子が皮肉っぽく市村を眺めていた。