第一章 見知らぬ人のままで
音楽がやんだ。ヴィヴァルディーにかわって雨音が耳に入り込んでくる。薔(しょう)子は布張りのソファーから身を起こし、コーヒーのおかわりを入れに立った。気に入りのミルクカップに香りのたった液体をたっぷり注ぐ。
今夜は砂糖もミルクもなし。なんとなくそういう気分でもあり、別荘に来てまでキッチンでゴソゴソするのが面倒でもありのブラック。
ステレオの電源を切るとカップを手に窓際に寄った。天井から床まで張ったガラスの向こうに、松の木の影と熱海の街の灯が激しい雨ににじんで見える。月があれば海が前面に広がるはずだった。
あの時刻に着いていて助かったと思う。一時間ちょっと前にはまだ小雨だった。この降りでは、曲がりくねった山路を上がるのに苦労したことだろう。視界を遮るおびただしい水の滴りが、独りの感じを深めた。
ロングスカートで再びソファーに横座りになる。見知らぬ男の略歴なんぞ入った封筒も、娘の真意を探ろうとする母親の気遣わしげな視線からも解放された、せいせいした晩だ。肩の下までの髪もときはなって、この自由さでしっかり心が決められないものかと思う。
掛け時計がかすかな音で十時を知らせた。和んだ音が、穏やかな幸福感をたちのぼらせた。一人だけのときに幸せを自覚する皮肉に、薔子は溜息まじりに微笑った。立木(たちき)薔子に取って代われるものなら、少しくらいの犠牲はいとわないと、ほかの娘に言わせたほどの、家庭環境と、恵まれた容姿を、彼女は持っていた。
自分を不幸だと感じたことはないが、ことさら幸福だとも思えないのは、二十五という年齢のせいなのか。
普段認めたくないことを、今夜は認めてもよい、素直な気持になっている。学校でも私生活でもこれまで優等生だった娘の結婚問題が、母親の頭痛の種になっていることが、薔子自身の悩みでもあった。
『いつまでも若くはないのよ。いい加減に踏ん切りをつけなさい』
明後日の見合いの相手の釣り書きを前に、母親に言われた。母の年代の人に言わせると、二十五というのは、良き縁談の上限だそうな。