「信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)殿を、ここに」
不貞腐(ふてくさ)れたようにやってきて跪(ひざまづ)いたのは、貴族のまだ若い男であった。
着古した狩衣(かりぎぬ)を痩せた長身にまとい、目の光だけは鋭い。身なりも構わず、いかにも長年学問に没頭(ぼっとう)してきた秀才らしい風貌(ふうぼう)だった。
(ああ、これが信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)か)
聖覚は、若い男を見つめた。
噂(うわさ)に聞いている。
信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)は、学問に優れて熱心であると評判が高かった。
上級貴族の子弟は、「蔭位(おんい)」といって黙っていても出世が約束されていた。だが中級貴族の行長は、学問で名をあげるしか、出世の道が無かった。行長は、何としても出世したかった。学問にかけては誰にも負ける気がしなかった。
行長の評判は後鳥羽院にも届き、ある時行長は、栄(は)えある『楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)』の番に召された。後鳥羽院が白氏文集(はくしもんじゅう)『新楽府(しんがふ)』から出題し、互いに討論させて優劣を競わせたのである。
だがその場で行長は『七徳の舞』のうち五徳は答えられたものの、あと二徳を忘れてしまった。痛恨の失敗である。
たちまち行長は『五徳の冠者(かじゃ)』、という不名誉なあだ名がつけられた。
日ごろ漢籍の知識を鼻にかけていたので、かえって嘲笑されたのだろう。
こんなあだ名をつけられては、学問で出世する道は断たれたと、行長は思った。
それを苦にして、行長はそのまま、どこかへ姿を消してしまったという。
(ここに、いたのか )
聖覚は妙に納得した。
漢籍にかけては人後に落ちない、という強烈な自負心を持つ行長が身を寄せるところは、確かに慈円の元しかなかったろう。