【前回の記事を読む】「あんなにかわいがってやったのに」盲目となった祖父は見舞いでの態度をいまだに根に持ち、私を何度もなじる。

井上玄徳さん

我が家の耕作する田圃は八反分ほど、この神社台地の真下を取り囲むように流れる、小沢に掛かった丸木橋を渡らなければならず、この小沢の流れを用水として水稲を栽培するのである。

田植えのころは、谷の融雪の水も田圃に流れ込むので、沢水から用水路は広く取り、小池の様な淀みを設け、少しでも用水を温める工夫を数百年に亘り凝らしていた。 そこには、小鮒やドジョウ、イモリが潜んでいた。

小学生の頃は、この淀みで、小鮒を釣り、釣った小鮒は、自宅の庭に大きめに造られた、蹲踞(つくばい)に飼っておくのである。 四年生のある日、何回か糸を垂らしたとき、浮きが大きく沈み込み、二十センチを超える大きな鮒が釣り上がった。

この堀は毎年農作物の収穫が終わると、積雪前に泥上げをし、その時捕まえた、鮒やドジョウは冬の蛋白源であった。

そして大きな鮒は、産卵用の種鮒として堀に放すのである。その種鮒を釣ったのだから、子供心に大いに驚き、この鮒を堀に返し、興奮して、祖父に報告するため家に帰った。

その日、我が家に井上玄徳さんが訪れており、お茶請けの羊羹を褒美だと言って、玄徳さんが私に食べさせてくれたことを、今も鮮明に思い出す。

さて、玄徳さんのことであるが、飯豊町史によると井上家の先祖は、五百年前永正年間、飯豊町手ノ子に曹洞宗の古刹、源居寺を開基した伊達政宗の家臣、遠藤四郎衛門の被官とあるが、現存の源居寺は開基井上平左衛門となっており、これほどの本堂を建立する資力を有していたのである。

祖父豊松と、井上玄徳氏の交友の始まりを、祖父が何回も話してくれた。

「妻の『かつ』が乳癌の手術で仙台市の病院に入院し、手術費も嵩み田畑をすべて担保に入れ、高利貸しから多額の借り入れがあり、返済期日が迫り、玄徳さんから杉林の販売代金で返済する条件で、借り入れを行い、高利貸しの借財を清算した。

杉材販売代金を受け取り、自宅に立ち戻らず、井上家に返済に伺ったところ、玄徳氏は『宇兵衛さん(我が家の屋号)私は貴方の杉山を質に取ったわけではない。この杉材の代金は宇兵衛家のお金であり、自宅に帰り宇兵衛家の恵比寿様に供え、明日返済に来てほしい』と言われた。それから、宇兵衛の正直な人柄に感じ入ったとのことで、生涯親友の付き合いをさせて貰っていた」。

井上玄徳さんの助けがなければ、我が家は田畑を全て手放すこととなり、小作農として父の代から、最下層の生活苦に喘ぐことになったと思う。

そして、祖父の全盲を慰めるため、月一度は我が家を訪れ、豊松の話し相手となってくれた玄徳さんの恩を、私もずっと引き継いでいるのである。