【前回の記事を読む】橋を渡っていたら、頭から逆さまに落下…半年ほど前に“仮吊り橋”として作られたばかりで、高さは6m程もあり…。
炭焼き
朧げな記憶なのか、あるいは妄想なのか、老境の現在判然としないが、祖父の炭焼き小屋に連れていかれたことを時々思い出すことがある。
それは小学校就学前で、自分のいで立ちは綿入れを着てたつつけを穿いた、戦後間もない山奥幼児の一般的な身なりであった。
この時祖父が築いた炭窯と炭焼き小屋は、自宅から五百m程離れた大豆畑より小高い丘の段々畑の様な場所にあり、その時は、小杉が育っていたが、江戸時代末期まで煙草を栽培していたとのことで、飯豊町史によると文政五年「産業御改帳」に中津川郷白川下流部の集落に米沢・小松・小国方面の商人が連縄のたばこを買い求めていると記され、六里離れた町場まで峠道を越えながら運搬するには煙草が打ってつけの作物であった。
木炭は石窯で焼く白炭と、土窯で焼く黒炭とあるが、祖父が健常者であったころ、自家用の炭を焼いており、それは黒炭であろうと思っている。
木炭作りは重労働で、まず炭焼き窯の作製に始まり、楢木の切り出し、木材の太いものは薪割り、炭窯への楢材の立て込みと、ここまでは子供が傍にいることは危険極まり無い。
その後焚付けとなるが、その作業の時祖父は私を炭焼き小屋に連れて行ったのである。
それは晩秋の頃であり、炭焼き小屋には小さな炉が切ってあり、焚付けの時に出る熾きの上に細い枝で三又を組み、使い古した薬缶が下げられて、盛んに湯気を立てていた。
小さな炉の熾きに手をかざし、暖を取りながら、お椀に白菜の味噌漬けを入れ、薬缶の湯を注ぎ、母が持たせてくれた、焼おにぎりを食べたことが、祖父との古い記憶である。