全盲となった祖父
あれは、私が小学校三年生の初夏、ピンクのタニウツギが、道路から川岸までの斜面一面に咲き誇る道を、初老の紳士「小澤」さんと、歩いていたことを、今でも思い出す。
それは、道々小澤さんに、岩に張り付くように咲いた白い花、薬草にもなると言う「いかりそう」を教えて貰ったことが、印象深かったからだ。
小澤さんと向かった先は、祖父豊松が、産卵の場所に集まった、鮠(はや)の群れに投網を打って漁をする、小砂利を敷き詰めた、早瀬が淵に落ち込む清流であった。
この時、祖父は緑内障が悪化し、川魚漁も最後になるとの覚悟があったのかも知れない。
近々、眼科に入院する祖父に、遠路山形市より見舞いに来てくれた小澤さんを、川面までの案内役で私が同道したのだった。
それから一カ月余り後、祖父は、長井市のK眼科医院でわずかでも光が届くようにと一縷の望みをかけて入院したが、全盲となってしまった。
その時の様子を、祖父は会う人ごとに何度も話していた。
「入院の病室は二人部屋で、夜、突然真っ暗になった。相部屋の人に『停電になったな』と問いかけたが、停電では無いと言われ、全盲になったことを悟った」。
私は五人兄弟で、ただ一人の男の孫として、特に祖父にかわいがられ、幼児のころはいつも傍にいて、掌中の玉のごとく育てられた。
祖父が全盲になってから、長姉に連れられて、祖父の見舞いにいったが、祖父の期待を見事に裏切ったことに、今でも胸が痛む。
今は白川ダムの湖底に沈んだ、狭隘の山村に住む私にとって、長井市は、憧れの町であり、祖父の見舞いよりも、街中の店のことが気になり、姉に、しつこく商店につれていくことをせがんだ。