【前回記事を読む】「光源氏のモデル」と言われた男。国家予算数年分の財力で“異様な豪邸”を造り、毎日海水を運ばせた。一方で……

15 在原行平 (八一八~八九三)

旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風

(旅人は袂を冷ややかに感じるようになった。関を自由に吹き越えてゆく須磨の浦風よ)

行平三十七歳の時、何かの事件に連座し、流罪というわけでもないが自ら身を引いて摂津国の須磨に籠もったらしい。「旅人」とはむろん自分自身のことである。同じ時期に詠った、

わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ

(たまたまでも私のことを尋ねる人がいたら、須磨の浦で藻塩をしたたらせつつ、涙に濡れて侘しく暮らしていると答えておくれ)

という有名な歌がある。この歌も良いが、掲出歌のほうが籠居中の悲哀感がより強く、季節の推移やその地の荒涼さと侘しさが感じられる。

紫式部はこの行平の籠居の場面を参考にして、『源氏物語』の中で、光源氏が須磨に蟄居(ちっきょ)する「須磨の巻」を構想したのである。一部分を引用すると、

「須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、『関吹き越ゆる』と言ひけん浦風、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり……独り目をさまして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに枕浮くばかりになりにけり」

この箇所は『源氏物語』のなかでも屈指の名場面である。なお、小倉百人一首には『源氏物語』を連想させる歌が三割近くにも及ぶという。

行平は平城天皇皇子・阿保親王(あぼしんのう)の第二皇子である。九歳の時在原の姓を賜り皇籍を離れた。

業平[16番]の異母兄であるが、業平とは性格も経歴も全く異なる。地道に役人の仕事を遂行し、蔵人、因幡守、参議と順調に昇進し、中納言にまで出世した。政治にも経済にも力を発揮して、権勢を誇った藤原基経と対立するほどの硬骨漢であった。

文化の面でも活躍し、現存最古の歌合「在民部卿歌合」の主催者であり、また、藤原氏一族の子弟のための学問所「勧学院」に倣い、「奨学院」を創設した。在原氏の長として一族の繁栄のために尽くした人であった。七十五歳で薨(みまか)った。

和歌の才は業平より劣るが、波乱の実生活から歌が自然に生まれてくるという才能があった。

弟である業平に似てハンサムであったかどうかは分かっていない。勅撰入集は十一首ある。

小倉百人一首

たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいま帰り来む

(お別れして因幡の山に私が行ってしまっても、因幡の山の峰に生えている松のように、あなたが待っていると聞いたならば、すぐに帰ってきますよ)

ある地方では、この歌を三度唱えると、行方不明の猫が無事に戻ってくるという言い伝えがある。