限られた現金収入
開田は昭和40年代
大広の開田は昭和42年頃。山村がようやく開田してまもなく、早くも国は減反政策を打ち出す。戦前から主食は大麦、ヒエのご飯。大豆を味噌や豆腐に加工し、野菜や山菜が普段の食事だ。
祖父は炭焼きをしながらマタギだった。炭焼きは戦前から暖房や煮炊きなどに木炭を利用したので根付いていたが、戦後義廣さんが中学の頃は都会に出荷するなど大ブームとなった。
他県から北上山地に炭焼きのために移住する人たちが相次いだ。
義廣さんは幼い頃一家の生計を支えた養蚕を手伝ったが、父親が昭和30年頃大川地区に葉タバコを導入。養蚕よりも安定した現金収入となった。
栽培が広がり、組合ができた。母親のトワさん(大正14年生まれ)は葉タバコを30年以上手がけ、「タバコが一番おもしろかった」と話した。
炭焼き、養蚕、葉タバコ、酪農や肉牛の生産といったところが山村の限られた現金収入だった。公共事業の賃稼ぎ。最近は椎茸栽培も含む林業だろう。
夏に山で放牧する在来の短角牛は赤茶色の毛で「あか」と親しみをもって飼われ、どこの農家でも堆肥をとるために数頭飼っていた。生まれた子牛を市に出せばわずかながら現金収入となる。
岩泉町安家(あっか)の小野寺ツキヨさん(昭和7年生まれ)が振り返る。「炭焼きもしたし、牛飼ったし、百姓もやった。牛は乳牛とあか二頭ずつ。牛は毎年こっこ(子牛)を産んだのでセリに出した。冬はえさを貯えてあるからいいが、夏は雨が降ろうと風が吹こうと山に草刈りに行かなければならない。よくやったと思う」
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