【前回の記事を読む】地球温暖化と国際紛争の時代に――日本が“食料が消える国”にならないためのヒントは岩手にあった

一、稲作以前、「粗食」の生きる力

日本人に親しまれ深く根付くコメとはまったく異なるもうひとつの食の営みがあった。稲作ができない厳しい自然風土への備えとして、生きる糧として受け継がれてきた雑穀。

主食の要のヒエを筆頭に、現代から見れば「粗食」でも土地の食材と組み合わせたり、粉に加工したりおいしく食べる知恵があった。自然の素材の味わいを大切にする素朴な食べ物だった。岩手・北上山地に暮らす人たちは何をどのように調理し食べてきたのだろうか。

 

「雑穀と味噌、塩があれば生きていける」

岩手県岩泉町の坂本シゲさん(昭和2年生まれ)は言った。コメがなくてもなんとか生きていけるだけの食べ物がある。

稲作が普及する以前、いざという時に命の糧となったその雑穀の故郷は北上山地にある。北上山地は緩やかな高原が広がる所は高くても標高1000m程度。かつて放牧地や草地が点在し、天然の芝の原っぱに放たれた牛が草を食んでいた。

今でも在来の牛を放牧する風景が残る。子牛が口を突き上げるようにして母牛のおっぱいを吸う光景に心和む。

また炭を焼いたり、薪をとったりするためナラなどの木を切って木が再生するサイクルを繰り返して生まれた自然木の風景が残る。葉をすっかり落とした樹々の白っぽい枝が冬の晴れた青空に映える。人を拒むような奥山というよりは人の生活が色濃く残されている。

山地を縫うように曲がりくねって川が流れ、集落が点在する。

このような山間に森林が九割を占める岩手県岩泉町がある。平坦な耕地が極端に少なく、近年にやっと稲作ができるようになるまでは斜面を開墾し狭い耕地を使い尽くすように畑作を営んできた。

作物の中核となったのは山でも栽培できるヒエやアワなどの雑穀だった。坂本シゲさんの記憶によれば「戦前から町内でコメをつくったのは旧岩泉駅前(鉄道は廃線)くらい」だという。

盛岡の市街地を抜けるといきなり続くつづら折りの道を抜けて峠を越える。太平洋沿岸部につながる国道の途中、大川地区に分かれる道は、渓流に沿って切り立つような山間に集落が点在する。見通しが悪くカーブミラーがある、車がやっとすれ違えるくらいの道が所々にある。

大川地区は筆者が通った地域のひとつ。この道からさらに枝道の集落に雑穀をつくる家がわずかに残っていた。

大川地区にある大広集落は小高い丘で現在25戸。見晴らしのいい所に暮らし、この地区を見守ってきた山内義廣さん(昭和22年生まれ)を通して地域の生業を素描してみたい。

タカキビ畑と大広集落からのぞむ山々